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ゲッベルスと私 - ナチ宣伝相秘書の独白 ブルンヒルデ・ポムゼル 著

ドイツ アウシュビッツでの大量虐殺をまったく知らないという人はいないだろう。しかし、もしも、本当に知らない人がいるならば、彼は現代のポムゼルなのかも知れない。

さて、ゲッペルスはヒトラーの片腕、ナチスの高官であり、ポムゼルはその秘書の一人だ。本の半分以上は、彼女の語る半生記である。

彼女は大量虐殺を当時は知らなかったという、知らなかったのだから、私はナチス党に入党して、秘書の一人ではあったけれど、なんの罪もない、私は無罪である、そう彼女は言いきる。

本当に彼女が当時知らなかったのかどうかはあまり意味がない。それについては、私の頼りない文書をお読みいただくより、ハンナアーレントの「責任と判断」ちくま学芸文庫を読んでいただく方が、彼女ポムゼルの言葉を理解する助けになると思う。

民主主義の国は国民が主権者である。政治家というのは、選挙を通し、私達国民の信託を得て、私達の代りに実務を行なう人達だ。代りを頼んだ以上、ちゃんと、私達全体の益となるよう活動しているのか、当然それを私達は計らなければならないのだが、私達は政治にしっかり感心を持って考えているか。

そう反問すると、かなり、心許ない。

私達、私もポムゼルのように、知らないんだから、私は悪くないよと言うのだろうか。こんなことになるなんて、とびっくりした顔をするのだろうか。

抜粋

P239 私たちはおそらくまだ、ポムゼルの言う「ガラスのドーム」の中で、不安と無知のために立ち尽くしている。念頭にあるのは自分の利益ばかりで、社会の状況には目をつぶってご都合主義を貫き、右翼ポピュリストの台頭に間接的に手を貸し続けている。ポムゼルが言うように、そこから抜け出す逃げ道はないのだろうか? 無知と無関心が潜在的な罪であるならば、現代の私たちが担う責任は非常に大きいという主張は、意外でも何でもない。ナチ政権の時代の人間なら、知らなかったと弁明することもできるかもしれない。だが、私たちは彼らよりも歴史を知っている分、わかっていなければならない。

結局のところ、私達は、平和に生きるために、政治を日常の言葉の中に取りもどす必要がある。取り戻す、太平洋戦争敗戦後、しばらくは、政治の言葉を日常までに引き込んでいた。その時代はそれほど長くはなかったけれど。

久野収 「神は細部に宿りたまう」 対話のすすめ P94 にて、対話には「それであなたはどう考えますか」という問いかけが必要であるとしている。

私たちは、「私はこう思うんだけれど、貴方はどう思いますか」

この問い掛けが苦手だ。苦手な理由は無知による自信の無さ、勇気の欠如に起因するのは、ほぼ、間違いないと私は思っている。ただ、政治を語りあうには、その勇気がどうにも必要だ。

本来はそこのところを公教育が荷なっている必要がある。参考になるのが、香港にあった 通識教育だと思う。 残念ながら、そこのところの教育が私達には欠けていた、無関心であったのが、いまだ。

一気に解決する芳策はない。

多くの人が気付き、勇気を杖に、その首の上に載っかった、その自分自身の頭で考えるようにしていくしかないだろう。