「学校に教育をとりもどすために」 尼工でおこったこと 林竹二著 筑摩書房

一部抜粋

「一度四年生の子がこういう感想を書いたことがある。 今日のじゅ業はとてもおもしろかったです。なぜだかというと、三浦先生がおしえる時は終りの方になってくるとあきてしまうけれども、林先生のじゅ業は楽しいのでぜんぜんあきてきません。それどころか四十五分間の長いじゅ業時間が十五分くらいのみじかいじゅ業のように思われました。なぜみじかいじゅ業時間に思われたかというと、いつものじゅ業は、勉強をするけど、今日のじゅ業は、勉強ではないようなかんじがしていました。

その時間中、この子はせい一杯生きていたので、それが楽しかったのである。それが授業あるいは勉強の楽しさなのだ。ふつうの授業では何人かの花形をのぞく子どもらは、息をつめて席に座っている。だが、活溌に発言している子の味わう満足は、学んだことのよろこびとはまるで異質のものだ」

抜粋終わり

林竹二の言うところの、「学んだことのよろこびとはまるで異質のものだ」とは、一体何か。

それが、鶴見俊輔の言うところの「一番病」であると思う。

授業において、教師の問いに子どもたちが我先に手を挙げ、教師に指された子は、問いの答えを大きな声で発する‥ この事象の大前提として、正解は教師の内にある。それを、子どもたちの誰が、一番最初に再発見をするかを競い、その勝者が席を立ち答えを発する。つまり、それは、他の子どもたちを抜き去り、徒競走をした、その勝利の喜びであるということだ。これは、学びの喜びとは異質のものである。

実のところ、この一番病には大きな副作用があると思う。

それは、「真実は外部にあると誤解することだ」。学校ならば先生であり、社会では、大学の先生、専門家、政治家などの声の大きな人たちの中に真実があるという誤解だ。

それは池の鯉が人間の撒く餌を食らうために口を開けバシャバシャと浮かび上がってくるのと大きな違いはないと私は考えている。