夕さん2話 途中

もうすぐ、書き終えると思います、書き終えたら、多分、3分の2 くらいの長さに詰めると思います。長くなりすぎた。

= 夕さん2話
[2016-01-01 23:43]

夕暮れ時の商店街は小さな希望とあふれる大きな落胆だ。口々にお喋りを繰り広げる人たちが、水が流れるように、私を通り過ぎていく。
賑やかな音楽が流れ、いらっしゃいませの掛け声がいくつも重なる、でも。
歩道の端に立ち止まったまま、私は思い出す。
そして、ああそうだったよなと、一人納得して、家路へと歩きだすのだ。

「ただいま、夕さん」
「お帰り、夕子」
カーテンを開けた窓から、薄墨色の空が見える。窓を背に夕さんが座っていた。
夕さんの体を通して空を見る、ふと、私まで空の中程にいるような気がして、信仰心なんて欠片もない私だけど、夕さんは天使かもしれない、そんな気がするのだ。ちょっと、言葉の乱暴な天使だけど。
はっと気づいて、灯りを灯す。夕さんは蛍光灯のスイッチを入れることが出来ない、指がスイッチをすり抜けてしまう。
「やぁ、明るくなった。ありがと」
そういうと、夕さんは倒したスーツケース、それをいつものように椅子代わりに座る。
「晩ご飯の用意をするよ」
「うん」
夕さんが元気よく返事した。

夕さんは暗いのが苦手だ。まだ、私が子供の頃だった、二人で留守番をしていた夕刻、強い雨が降っていて、遠雷、遠く、雷が鳴っていた。
暗くなるにつれて、雷が近づいて来る、いきなり、どんって、雷が落ちた、そして、停電になったんだ。
私、薄暗がりの中で、夕さんがうずくまって声を押し殺すように泣くのを見た、最初で最後の、夕さんの泣く姿だった。そして、私は知った。夕さんは何を触れてもすり抜けてしまう。実体としての体がない、だから、闇の中、自分自身が闇にとけ込んで消えてしまうのではないか、私やお父さんやお母さんに会えなくなるかもしれない、喋れなくなるかもしれない、忘れられてしまうかもしれない、そう思うと、怖くて、悲しくて泣いてしまうんだってこと。
いまはもう、停電になっても夕さんは泣かないけれど、夕さん素振りも見せないようにしているけれど、私も全然気づかない振りをしているけれど、今も夕さんは闇が怖い。

「いい匂いがしてきた」
横から、夕さんがフライパンをのぞき込んだ。
夕さんは味のしっかりしたのが好みだ、はっきりとした匂いがあるから。
「野菜炒め風チャーハンと溶き卵とトマトのスープ、香辛料ちょっと多めにしたよ」
「ありがと、嬉しいなぁ」
私、ちょっと溜息をつく。
「どうしたんだ、夕子」
「なんていうかなぁ、二十年くらいしたら、夕さんと私、親子だなぁって思った」
「というより、夕子も結婚して、私くらいの子供がいるだろう」
諭すような夕さんの言葉に、一瞬、不安がよぎる。
「夕さんもいてよ、私がおばあさんになっても、一緒にいてよ」
「あぁ、頑張るよ」
ちょっと、いたずらげに笑みを浮かべて、夕さん、椅子代わりのスーツケースに戻った。
折り畳み式の小さなちゃぶ台にチャーハンとスープを二つ、一人分を二つに分けたものだ。それに、小皿にちょっとだけ、チャーハンを載せて、ちゃぶ台に載せた人形の前に置く、あの娘だ。
「夕さん、この子、元に戻らないかなぁ」
「元に戻るもなにも、これが本来の姿だ。よほど強い願いがあって、人の姿に化身していたんだろう。古いもの、情の強いものには心が宿る、付喪神と呼ばれるものだ」
夕さんがスープに顔を寄せる、夕さんは食べることができない。ただ、匂いをかぐんだ、それが夕さんの食事で、濃いめの匂いをかぐとお腹がいっぱいになる、だから、ちょっと濃いめの味付けをするんだ。
「私は何も出来ない、料理も作れない。蛍光灯のスイッチすら押せない。夕子の世話になりっぱなしだ。だから、せめてさ、夕子の悩み解決に手を貸してやりたいと思う」
夕さんがいたずらげに、にっと笑った。
「この娘が、何故、人を導き穴に落ちた子供を引き上げさせようとしていたのか。それを考えてみよう」
「それは、落ちた子供が可哀想だから」
ちょっと自信ない。
「なぁ、夕子。外国の紛争地帯で子供が空爆で大怪我してさ、可哀想だと思う、でも、さすがに飛行機乗って助けに行きはしないだろう。でも、夕子が大怪我をしたなら、私はまさしく飛んでいくぞ」
「つまりそれは、この娘の大事な人が穴に落ちてしまった」
「この娘を可愛がっていた女の子が親の虐待が元で穴に落ちてしまった。この娘はその女の子を救い出したい、その強い願いが、あの姿を生み出したんだろう」
「それじゃ、その女の子見つかったから、人形に戻ったっていうことかな。空に浮かんでいった子供たちの中にいたのかな」
夕さんが大げさに溜息をついた。
「あんな穴はいくつもある。大人は、理由をつけては子供を犠牲にするからな」
夕さん、正座をして、あの娘を見つめた。
「大変だったろうと思う。助けてくれる物好きな奴なんかいない。夕子」
「は、はいっ」
「お姉ちゃんのほっぺたは温かいぞなんて、子供の絵本かよなんてことするもんだからさ」
夕さんが、私の顔を見て、にやりと笑いかけた。
「この娘、ほぁんってなってしまって、本来の姿に戻ってしまったわけだ」
「それって、私の責任」
「別に責任だとか、そんなんじゃない。いつかは知らないけれど、いずれ、女の子の姿に戻るさ、願いはまだ叶っていないからな」
「私、腕立て伏せするよ、力つけて、子供たちを引っ張りあげられるようにする」
夕さんが涙を流して笑った。
「私的には思うところもあるけれど、ま、筋トレ頑張ってくれ」

夕さんが匂いを嗅ぎ終えた分も私が食べる、少し、味が薄くなった気がして、ほっとする。
そして洗いものを済ますんだ。会社では新入社員として雑用全般も本来の仕事に加えて押しつけられているから、なんだか、へとへと、心が折れてしまうぞ、社員を大事にしろって思うけど、夕さんと晩ご飯を食べながらお喋りをすると思うと、なんとかやっていける。
いつまで経っても、私にとって夕さんは頼りがいのあるお姉さんだ。こんなこと、口に出すとしっかりしろと叱られそうだから、言わないけれど。
振り返れば、夕さん、じっとあの娘を見つめている。
夕さんは時々不思議だ。私には見えないものを見、聞こえないものを聞いているような気がする。
私がまだ中学生の頃だったと思う。
私、思いついたんだ。夕さんはものに触れることができない、すり抜けてしまう、でも。
夕お姉ちゃん、夕お姉ちゃん。
私、凄いことを思いついたんだ、夕さんに正座してもらって、私も夕さんのすぐ後ろに正座をする、そして、左手をぎゅって伸ばして、夕さんの左腕と重ねたんだ、そして、この腕は夕さんの腕だって思いこむ。
そしたら、すぅっと、左手の感覚が無くなって、夕お姉ちゃん、どんな感じって、私、無邪気に言ったんだ。
夕さん、驚いて左手を顔に寄せて言ったんだ、
「体って。温かいなぁ、ありがとう、夕子」
「うん」
私、得意になって、頷いた、でも、急に夕さん、左手を引き抜くと、私に向きなおって、睨んだんだ。
「ありがとう。でも、二度とするな。これは夕子にとってやってはならないことだ」
今にして思う、私は無邪気に自分の体を夕さんに明け渡そうとしたんだ。それを夕さんが、たしなめたんだ。私は夕さんに叱られてしゅんとしてしまったけど、でも、なんだかとっても嬉しかったんだ。

「おおい、夕子。用事が済んだら、こっち、来てくれ」
夕さんの声に洗い物を終えて、振り返る。
夕さんはあの娘を正面からじっと見つめていた。そして、後ろに回り込んで見つめたり、上からのぞき込んだりしている。
「どうしたの、夕さん」
「夕子。ちょっと、この娘を持ち上げてくれ」
夕さんに言われるまま、両手で持ち上げてみる。
夕さんが下からこの娘を見上げる。
「無いなぁ」
「えっと、何がないの」
「扉。ドアだ」
「え、ドア」
「そうだ。夕子だってそうだろう、他人宅行ってさ、ピンポンって呼び鈴鳴らして、こんにちはって言うだろう。なけりゃ、ドアをとんとんって
叩くだろう」
不思議そうに夕さん、私を見つめる。
「えっと、つまり、家のドアを探しているってこと」
「あの娘にとって、この姿は家のようなもの、呼び出してやろうと思いついてさ、扉を探している」
夕さんが、嬉しそうに笑った。
「夕子はあの娘に早く会いたいんだろう」
夕さんは凄い、そんなの思いつきもしなかった。夕さんはどうして、こんな不思議なことを知っているんだろうと思う。一度だけ、夕さんにどうして、不思議なことを知っているのって尋ねたことがあった。
夕さん、びっくりしたように言った。そんなの常識だろう、夕子、少しは勉強しろよって、いたずらが成功した子供のように笑っていた。

「見つけた。左の小指だ、こいつは大変だ」
夕さん、小さく息を漏らした。そして、スーツケースの上に胡座をかく。私、この娘をテーブルに戻して言った。
「えっと、夕さん」
夕さん、私を見上げた。
「右手の指切りは遊びだ。でも、左手小指の指切りは本物なんだ」
「本物って」
戸惑いながら、私、夕さんの前に座った。
「まだ、子供の頃だ。夕子、私と指切りをしようと左手を出したことがあるだろう」
そう言えばと思う、小学校で同じクラスの女の子が指切りをして、明日の約束をするのを見たんだ。私、それを見て、そうだ、夕さんと指切りをしようと思って、小指を出したことがあった、夕さんにだめだって叱られたんだ、その時。
「指切りげんまん嘘ついたら、針千本飲ます、指切った」
夕さん、左手を後ろに隠して歌った。そして、少し両目を伏せる、言わないけれど、とっても綺麗だ、夕さんは言葉が少し乱暴だけれど、笑ったら、とても可愛いんだけど、目を少し伏せただけで、空気が凛とするんだ。


「嘘を一つついただけで、縫い針千本飲ませるぞって言うんだ、約束っていうより、脅しや呪いだろ。釣り合いがとれやしねぇ」
夕さん、目を伏せて、深く溜息をついた。
「夕さん、泣きたいなら泣いていいんだよ」
「残念ながら、私は泣くのが嫌いだ。泣くことで心を癒すのだ、心の安寧を得ることができるというなら、私は自己との対話で心を癒すことにしているからな。泣く必要がないんだ」
夕さんの石頭は昔からだけれど、多分、夕さんは肉体がないのを、考えるってことで補っているから、真面目だったり、石頭だったりするんだろうなと思う。そうじゃないと、自分自身が曖昧になってしまって、消えてしまうんじゃないか、多分、そう思っているんだと思う。

「この娘は人の子供と指切りの約束をした、約束をしたというより、呪いをかけられたというほうが正解だ。だから、この娘を解放するということは、その呪いを夕子が引き受けることになるかもしれないということだ。縫い針千本、呑むことになるかもしれない。その覚悟がなければ、この娘を飾っておくにとどめた方がいいってことだ」
「夕さん。多分、私、大丈夫だと思う。そんな気がするんだ」
「なんだよ、もう」
夕さん、頭を抱えた。
「夕子は危機意識が足りない。だいたい、あの地面から生えていた子供の腕だって、普通は触らないぞ。誰だってびびって離れるだろうに、しっかり握ってんだから」
「大丈夫だ、夕さん」
私、励ますように言った。
「何が」
拗ねたように夕さん、私を睨んだ。
「私には夕さんってお姉ちゃんがいるんだから」
私の笑顔に、夕さん、うつ伏せになって頭を抱えてしまった。
「姉として、しっかり育てたつもりだったんだけどなぁ。なんで、こんな能天気に育ったんだ」
夕さん、大きく溜息をつくと体を起こして、スーツケースの上に座り直した。
「まぁ、いろいろ言いたいこともあるけど。一つだけ言う。正座」
「はいっ」
夕さんの言葉に膝を揃えて正座した。
「夕子がどんな危険に陥っても、私はその腕を掴んで引き戻してやることはできない。だから、私が逃げろと叫んだら、一目散に逃げろ。私が止まれって言ったら、何があっても止まれ。いいな」
「はい、そうします」
元気に答えた。
夕さん、もう一度、溜息をつくと、ぼぉっと私を見つめた。
「出来の悪い子供ほど可愛いというけれど、出来の悪い妹もまぁ、可愛い、かもしれないな。夕子、足、ゆるめていいよ」
そっと、夕さん、微笑んだ。
かっこいいなぁと単純に思う。子供の頃、夕さんみたいになりたいと思った。それは、半透明になりたいっていうんじゃなくて、なんていうかな、颯爽としていて、とにかく、かっこよかったんだ、いつか夕さんみたいにかっこいい女になるぞって思ったけれど、見た目年齢、夕さんを越えてしまったけど、まぁ、現実は厳しい。
「夕子、この娘を膝に載せな、同じ方向を見るように膝に載せるんだ」
「えっと、はい」
「次は左手で、その娘の手首を掴む」
「こんな感じかな」
「それでいい。次は右手の小指の先でその娘の左小指の根元、とんとんとつつけ。そして、こんにちはと呼び続けろ」
すぃっと夕さんの眼が線を引くように細くなる。
「とんとん、こんにちは」
右手の小指でつつく。なんだか、不思議な感じだ、何か、秘密の儀式をしているみたいだ。
「とんとん、こんにちは」
夕さんが呟いた。
「あの娘が現れるまで続けるんだ。でも、絶対に左の小指でつつくなよ。指きりの約束が成立してしまったら、夕子が縫い針千本、呑むことになるかもしれないぞ」
夕さんの言葉に緊張する。
「とんとん、こんにちは。とんとん、こんにちは」
なんだか、少し、この娘、重くなってきたような気がする、それに少し暖かくなってきたみたいだ。
「とんとん、こんにちは。とんとん、こんにちは」
「夕さん、大変だ。膝、重くなって来たよ」
「よし、夕子、眼を瞑れ」
私、ぎゅっと眼を瞑った。
子供だ、小さな子供が私の膝に座っている。左手の手首もそうだ、これは子供の手首だ。
「夕さん、眼を開けていい」
「いいよ」
眼を開けると、私の目の前にあの女の子がいた、後ろ頭しか見えないけれど、確かにあの子だ。
夕さんがにぃぃと、唇を歪め、笑みを浮かべた。
「おはよう、よく眠れたかい」
眠りから醒めて、焦点が合ったのだろう。いきなり飛び上がると、部屋の隅に背中を向けうずくまってしまった。
「もう、夕さん、脅したらだめだよ」
嬉しくてたまらないと夕さんが笑った。夕さんはちょっと意地悪なところがあるのだ。
私、なんだかいとおしくて、女の子の頭をなでる。
「君、大丈夫だよ。あっちのお姉ちゃんもほんとはとってもやさしいんだよ」
柔らかな黒い髪だ、暖かい、まるで、生まれたてみたいだ。
女の子がゆっくりと向き直って、ごめんなさいと頭を下げた。「謝ることないよ、折角、寝ていた君を起こしたのはお姉ちゃんだからさ」
夕さん、ついっと女の子を見下ろした。
「お前、名前は。名前を教えな」
女の子は首を横に振ると、まだ、ありませんと小さく答えた。
「お前と指切りをした友達は、名前を付けてくれなかったということか」
いぶかしる夕さんの眼を避けるように女の子が深く頭を下げる。
「まぁいいや。なら、夕子、この女の子に名前を付けろ」
「え、いいの」
「いいもわるいも、名前がないと不便だろう。夕子が付けないのなら、私が付けるぞ、例えば、五郎左衛門とか、権兵衛為助とか」
「だ、だめだよ、可愛くない」
本当にこのままだと、変なのを夕さん、付けてしまう。
「よし。私に子供が出来たら絶対付けるぞって名前を君に付けてあげよう。幸せと書いて、幸(ゆき)、君は幸だ」
女の子が驚いたように私を見つめる、そして、そっと笑みを浮かべた。
「なんだよ、夕子。平凡な名前だなぁ。人形繋がりで、佐七とかいいんじゃないか。強そうだぞ」
夕さんの提案は気持ち良く却下し、なんだか、三人家族の生活が今から始まったのだ。

 

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朗読用小説「夕さん」 20151112版

「夕さん」を推敲いたしました。文字数で言いますと、5298文字から4310文字に減らしました。400字詰め原稿用紙2枚ちょっとです、
少し、読みやすくなったかと思います。
「夕さん」

夕さん 作 物部俊之

駅前で花を一輪いただいた。輝く夕暮れの空、小さな女の子がこれあげると花を一輪、私に差し出したのだ。
これでも、二人暮らし、会社に勤めて一年、ちょっとばて気味の社会人だ。
子供から何かいただくというのは、大人として、少しは遠慮するべきなんだけれど。
夕暮れに染まったその女の子が、なんだかいとおしく、つい、手を伸ばし、花を一輪受け取ってしまったのだ。
ありがとう、女の子は笑みを浮かべると、人込みへと消えて行った。
人込み、そして、私は初めて気が付いたのだ、賑やかな雑踏に辺りを見回す、店から流れるはやりの歌、私は夕飯の買い物で賑わうたくさんの人達の中にいたのだ。

「夕子も物好きというかなぁ」
二人暮らしのアパートに戻ると、半透明の夕さんが、溜息ついて、一輪の花を眺めた。半透明の夕さん、十代後半くらいの綺麗な女の子だ。半透明の夕さんはその名の通り、向こうが透けて見える、手を伸ばせば、手が擦り抜けてしまうのだ。幽霊みたいなものかもしれないけれど、本人にはそういう自覚はないらしい。私は私だ、が、夕さんの自分自身に対するしっかりとした評価だ。
うちの親が言うには、私が生まれる時、母さんの横でしっかりしっかりと叫んでいたのが、初めて夕さんを見た時で、暢気な親だ、鍵を掛け忘れたときなんか、ちゃんと、夕さん、教えてくれるのよ、助かるわぁ、なんてほざいているのだ。
私が子供の頃は、夕さんはお姉さんで、いまは、なんだか生意気な妹で、それは夕さんがずっとかわらないのに、私が大人になっていったからだ、多分、夕さんの中では、まだ、私は妹で、子供なのだろう。父さんと喧嘩して家を出た時も、私について来てくれたのは、頼りない私が心配だったからだと思う。

「それ、なんて花だろう、百合かな」
「百合とは花の形は似ているけれど、葉の形が違う、この花、夕菅って云うんだ。夜に咲く月の色した花。朝にはしぼんでしまう」
夕さん、立ち上がって、窓から外を眺めた。
「見てごらん。上弦の月の色」
夕さんは実体がないので、体を突き出せば、上半身がカーテンも窓も擦り抜けてしまうけど、私はそうはいかない。カーテンを開け、外を眺める。
中空には檸檬の色をした月が浮かんでいた。闇の中、冴え冴えと輝いている。
「さて、月の角っこに、綱掛けて、何か引き上げようようというなら、これも縁というもの、少しばかり手伝ってやるさ」
夕さんがにっと笑みを浮かべた。
「どういうこと。夕さん」
「夕子。しっかり晩御飯を食え。食ったら、出掛けよう」

「足が痛いよぉ、帰りたいよぉ」
私の泣き言に、きりきり歩けと夕さんが楽しそうに笑う。全くの闇の中、あの夕菅の花が仄かに月の色を足元に照らしていた。肌が微かに湿気を感じている、雨上がりなのだろうか。見上げても、真っ黒な闇。
「夕さん、一緒に居てよ、何処にも行っちゃやだよ」
「大丈夫。隣りずっと歩いてやるよ」
「ありがとう、夕さん」
「どういたしまして」
にかっと、夕さん、自信に満ちた笑顔を浮かべた。
私達は夕菅に導かれるまま歩いているのだ。夕菅を持つ私の右手が磁石に吸い寄せられるように、歩く方角を決めて行く、私と夕さんはその後を付いて歩く。足のだるさを思えば、もう何時間も歩いているに違いない。
「ねえ、夕さん。いつか聞こうと思っていたこと、いま聞いて良いかな、多分、今じゃないと聞けないと思う」
「いいよ。歩いているだけじゃ退屈だ」
「あのね。夕さんは齢もとらないし、透けているし、手を伸ばせば擦り抜けてしまう。それでいて、商店街のおばちゃん達とカラオケで歌っていたり、近くの高校生に告白されて、ガキに興味はねぇって断ったりもしていた。夕さんは何なの」
「確かにそれはご飯食いながらの質問じゃないな」
夕さん、怒らずに真面目な顔をして答えてくれた。
「夕子を産もうとしている母さんの隣りにいた、酷い難産だった。実は私にはそれ以前の記憶がないんだ。だから、夕子の問いに答えるのは難しい。ただね」
夕さんが私に向かって恥ずかしそうに笑った。
「私はちっちゃな女の子のお姉さんになろうと思ったんだ。夕子のお姉さんにさ」
「私のお姉さん」
夕さんが笑って頷いた。
「だから、夕子は大人になってしまったけど、私にとっては今も妹だ。夕子がおばあちゃんになっても、この夕さんの妹だ」
夕さん、ふいっと笑顔を消して、視線を前に向けた。夕さんは意外と、照れ屋なのだ。
「お姉ちゃん、ありがとう」
思い切って言ってみた。夕さん、聞こえない振りをしているけれど、ほんの少し笑った。
そうだ、いつからだったろう、夕さんって呼び始めたのは。夕さんの少し寂しそうな笑顔を思い出した。

「夕子。見えるか」
夕さんが囁いた。
月だ、空の高みに、上弦の月が浮かんでいた。月明かりを頼りに辺りを見渡してみる。
月のかけら、夕菅の指し示す方向に光が灯っていた。

駆け寄ると、あの女の子が夕菅の花を片手に俯いていた。女の子は信じられないようにぼぉっと私の顔を見つめた。
「来たよ。さっきは花をありがとう」
急に女の子がごめんなさいと呟いた。
「ま、そうとしか言いようがないもんな」
夕さんが女の子の横にしゃがんで、地面を睨んでいた。
「随分、深いし、冷たそうだ。夕子、来てみろ」
直径一メートルくらいの穴だ、暗くて深い穴が地面に穿たれていた。
「目を凝らしてじっと見てみろ」
夕さんが穴の真ん中を睨みつけたまま、呟いた。
腕だ、子供の細い腕が、一本、手を伸ばせば届くところに、生えていた。
手が花のようにだらりと力無く、まるで風があるかのようにゆらゆら揺れている。
夕さん、ぎろっと女の子を睨みつけた、女の子が夕さんの視線を恐れるように俯く。
私、ゆらゆら揺れるその手を両手でしっかり握った。なんて冷たいんだ、氷、いや、そうじゃない、もっと深い、心に滲み込んでくる冷たさだ。
「ええっ、夕子、なんで掴むんだよ」
振り返った夕さんが驚いて声をあげた。
「え、あの。引っ張りあげたほうがいいかなぁって、えっと、うん」
「その穴に落ちてしまったら、闇の中、無限に生きることになるぞ」
「その穴に子供が落ちているのなら、引き上げなきゃ」
私、おもいっきり手に力を入れる、子供の手、引っ張りあげてやる、重い、なんて重いんだ、動かない。
「夕子、子供の顔を思い浮かべろ。笑顔を思い浮かべるんだ」
夕さんの言うように、幸せそうに笑顔を浮かべる子供の顔を思い浮かべた。あぁ、これ、私だ、私が子供の頃の顔だ、夕さんと一緒に公園で遊んだときの笑顔だ。
ふっと腕が軽くなった、小学生くらいの少年がふわっと空中に浮かんだ。手を離すとゆっくりと月の引力に導かれ、浮かび上がっていく。
「夕子、しっかり。まだ、次がいるぞ」
夕さんの声に穴を見ると、多分、あれは女の子の手だ、ゆらゆら、揺れていた。ぎゅっと握りしめる、なんて冷たい手だ。
おもいっきり、引っ張りあげた。小さな女の子だ。次々と、もう、わけがわからないくらい、たくさんの子供達を引っ張りあげる、小さな赤ん坊まで引っぱり上げる、皆、とても冷たい手だ、私の手も冷たくかじかんでいく、でも、こうやって手を差し出すなら、なんとか、この闇から子供達を引き出してやりたい、母性だかなんだか、知らないけど、子供達が辛い思いをするのは嫌だ。
「夕子、この子が最後だ」
夕さんの声に息を飲んだ。手の形すらしていない、生まれる前の手だ、両手を闇に差し込む。手が痛い、手がちぎれてしまいそうだ。掬い上げて、月へ掲げた、手を離す、ふわり、赤ん坊が浮かんだ。
「もう、限界だ」
背中から万歳の形で倒れてしまった。見上げると、いくつもの子供達が上限の月に向かって昇っていく。
「お疲れさま」
夕さんが少し笑った。
「夕さん。あの子達、どうなるんだろう」
「わからない。でも、闇の中、膝を抱えて震えているよりはずっとましだろう」
夕さん、ほっと息を漏らすと、私の横に座った。
「ね、あの子達っていったい何だったんだろう」
「親からの虐待で殺された子供達だ、この穴はそんな子供達を飲み込んでいたんだろう、こんな穴は何処にでもあるのさ」

体を起こすと、穴は消えていた。女の子が正座して俯いている。足引きずりながら、女の子の前へ這う。
ごめんなさい、俯いたまま、女の子が呟いた。
「謝ることはないよ。お姉ちゃん、ちょっと頑張っただけさ」
手が、と女の子が言いよどんだ。
どうしてだろう、私、女の子の手を取って、私の頬にくっつける。
「ほら、手は冷たくなったけど、ほっぺたは暖かいぞ」
女の子が泣き出しそうな、でも、しっかり笑顔を浮かべてくれた、そして、かき消すようにその姿が消える。
「え、あ、ど、何処に行ったの」
「下、見てみろ」
夕さんが指さす先、小さな女の子の人形が転がっていた。
「服装や髪型、同じだろう」
私、人形を拾い上げて、どうしてだろう、しっかり抱きしめた。
なんでだ、泣きそうになる。
「少し明るくなってきたな」
辺りが見える、夕菅の花はしぼんで、朝日が昇る前の、朝まだき、うっすらと青色に辺りが染まる時間だ。
「ここって」
「近所の河原だ。歩いて十五分ってとこだな」
「ね、夕さん、この子、連れて帰っていいかなぁ」
「そのままにすれば、ゴミ扱いだ。いいんじゃないかな、連れて帰って」
夕さん、そっと笑みを浮かべてくれた。
ゆっくりと立ち上がる、川風が上流からゆっくりと流れてくる。
「夕子。同じようにさ、また、子供の手を引き上げなければならなくなったらどうする」
夕さんの言葉に、自分の両手を見つめた。少し、両手に暖かさが戻ってきたように思う。なんだったんだろう。心に直接襲ってくるあの冷たさ。あれは、あの子達の絶望や恨みや怒り。ううん、そうじゃない。あれは、願いだ。生きていたい、笑顔を浮かべたい、そんな強い願いがぶつかってきたんだと思う。
「あの子、喜んでたな」
「うん」
夕さんの言葉にじっと腕の中の人形を見つめた。薄汚れてしまっているけれど、とても可愛い人形だ。この子も辛い思いをしたのかな、こんな小さな人形なのに。
「泣いているのか」
「ううん、泣いていないし、泣かない」
ぎゅっと歯を食いしばった。
「こういうとき、絶対に泣いたらだめなんだ。涙と一緒に思いが流れて行ってしまうから」
夕さんも立ち上がると、にかっと子供のように笑った。
「夕子、しっかりしたな」
「うん」
どうしてだろう、素直に頷いた。
私は、次も手を掴むだろう。知らぬ振りをせずに。
ふと、気がついた。夕さんは私を引き上げてくれたのかもしれない。
「お姉ちゃん」
「いいよ、夕さんで。なんか照れる」
「ううん。ありがとう、お姉ちゃん」
夕さん、照れ笑いを浮かべて、顔をそむけた。
「どういたしまして」

終わり

 

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夕さん 三話 最終話

「ただいま」

夕子は

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2016.02.01版 白粉花

雨上がりの夕刻、古い街並みを宿へと向かい、ゆらりゆらりと歩く。遠くなった友人のおとないを、ようやっと得た帰りだ。

ふと、甘やかな匂いがした。なんだか、とても、懐かしい。
ああ、これはと気がついた、白粉花だ。

つんとくる甘やかな匂い。

京都は花見小路辺りを歩けば、すれ違う舞妓芸後の白粉の香り。それに似ていることを由来とするのだろうか。雨上がりのせいだろう、空気中の水分が白粉花の匂いをすっかり取り込んで、密に充満しているのだ。

思い出す、多分、小学校あがるかどうかの歳だったろう、見上げる本家の門、向かって左にたくさんの白粉花の赤色が咲いていた。多分、今のような雨上がりの夕刻だ。
そして、気づくと、姉と慕う二つ上の従姉が、白粉花の隣に佇んでいたのだ。

珍しく着物を着た従姉は、花を一つ摘み取ると、そっと根元を口に含む。

「とってもね、甘いんやよ」

そう言って、美しい顔に笑みを浮かべた、白粉花の赤色のせいだろうか。笑みの隙間からのぞく八重歯が鋭く、なぜか私はここで死ぬに違いないと覚悟した。
その後のことはまったく覚えていない。その情景だけが強烈に私の中にある。
もちろん、まだ、私は生きている。

今年の初めに、本家は新築となり、その頃の面影はない。
多分、従姉に問うても、覚えてはいないだろう。

今となっては、事実として、それが本当にあったことなのか、私の脳が産み出した幻想か、確かめる術はないし、また、その必要もない。
仮にそれが事実ではなくとも、それが、私の真実であることに違いはないのだから。

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このページのご説明

このページのご説明です。

私、物部俊之の書いたお話をいくつか載せております。とくに執筆のご依頼などは受けておりませんが、ちと、声のひとつでもかけてやろうというかたは、facebook経由でどうぞ。

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朗読会 第36回 P-ACT文庫のご案内

第36回 P-ACT文庫のご案内

2016年1月24日 朗読会が開催されます。

三編の掌編が朗読されますが、その一つに私の書いたお話もあります。

ちょっとした人情噺ですが、よろしければ、どうぞ。

たくさんのご来場有難うございました。 第36回『P-act文庫』 P-actblog http://ameblo.jp/p-act/entry-12120822536.html

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黒い傘

紆余曲折がありまして、昨年はこのお話を元にした朗読劇を上演していただいたりとありましたが、それ以降、なんとか、自身がわりと納得できる形で、オーディオドラマとしてきっちり仕上げておきたいとか思うこともありまして。
「わりと」と「きっちり」、どっちなんだというものですが、少しばかり、逃げの要素も残しておきたい小心者ですから。

最後まで書いたので載せておきます。
400字詰め原稿用紙44枚。
権利は私にございますけれど、黒い傘についてのみ、ご自由に演じていただければと思います。特に私へのご連絡は必要ございません。また、演じることで、例えばCDやダウンロード販売などで利益を得られるのもご自由にどうぞ。私への利益の分配は必要ございませんし、特にご連絡も必要ございません。

 

黒い傘

(囁くように、でも、はっきりと)
女 「こんにちは」
女 「はじめまして」
(静かな音楽)
女 いつからだったろう、黒い傘の、あの女の子を見かけるようになったのは。冷たい雨の降る夕暮れ時だったろうか、それとも雪の降りしきる吹雪の朝、そう だ、思い出した。夜に降り続いていた雪がやんだ朝、久しぶりの青い空、地上は雪に覆われた真っ白な世界、新聞を取ろうと玄関を出た時、その真っ白な世界の 中に黒い傘を差したあの女の子がいたんだ。黒い傘のあの子だけが白を拒絶し、道の向こう側に立っていた。誰もいない二人っきりだった、急いで道の向こう側 へ渡らなきゃと思ったのに、手を伸ばしてしっかり抱きしめてあげなきゃと思ったのに、私は怯えて立ちすくんでしまった。どうして私は怯えたんだ、どうし て。
どうしてだかわからないのに、私、怖くなってドアを閉ざしてしまった。
それから何度も、傘をさしたあの女の子を見かけた。陽だまりの、公園のフェンスの向こう、夕日に伸びる私の影の下。
小さな黒い染みが、私の心の中で見る間に広がって、いつのまにか、黒い傘をさす小さなあの女の子が、心の中を、大きく占める存在になっていったんだ。
名前も知らない、話をしたこともない、ううん、顔すら、黒い傘が邪魔をして見たことがないんだ。それでも、なんだか、そわそわと気掛かりでしょうがない。 思い切って声をかけてみようかと思う、思ったことはあるのだ、でも、なんだか怖いんだ。円満とは程遠いけれど、夫との安定した生活。近所の人達との、天気 がいいだとか、悪いだとかのつまらないお喋りをする日常。それが、黒い傘に隠れた小さな女の子に話しかけた途端、一瞬にして消え去ってしまいそうな気がし て怖いんだ。
どうして、そんなふうに思ってしまうのだろう、わからないくせに、いつも、こうしてためらってしまう。怯えてしまうんだ。

(少し元気に、呼びかけるように)
女 「こんにちは」
女 「はじめまして」
女 「私、この近くに住んでいるんだ」
女 「君もかな」
女 「大きな傘だね、お父さんの傘かな。」

女 簡単なことだ、返事がなければそのまま、通り過ぎればいいだけのことだ。でも、返事があれば。返事があればどうしたらいいんだろう。私、怖くて逃げ出したりしないだろうか。

(鍵を開けて、ドアを開ける音)

女 「あぁ、お父さん、居たんだ。ただいま」
女 夫は三日間の出張、一人でいてもしょうがないと、久しぶりに実家に帰ってきた。
女 「母さんは」
父 「一泊二日の温泉旅行、お仲間とな」
女 「なるほど、その言い方。定年退職、ごろごろしている亭主として立派に疎んじられているわけだ。たまには姉さんや兄さん、帰ってくるの」
(女、椅子を引いてテーブルにつく、女、落ち着いた口振りで)
父 「お前くらいだな、思い出したように帰ってくるのは」
女 「まぁ、しょうがないよ、姉さんも兄さんも子育て大変だからさ」
父 「おまえはどうなんだ」
女 「ん、私」
父 「子供は」
女 「いきなりだなぁ。そういうのはいらない」
父 「亭主殿は欲しがっているんだろう」
女 「それが大問題だ、最初はさ、子供はいらないよ、君さえ居てくれればねって甘い声で話してくれてたんだけどなぁ」
女 父さんの読んでいた新聞がテーブルの上にある。大見出し、生後すぐの赤ん坊がゴミ袋の中で発見された事件だ
父 「亭主殿はお前が本気で子供がいらないとは思ってなかったんだろう。男は無条件に女は子供好きと思い込んでいるからな」
女 「今にして思えばね」
父 「新聞に載るよりかはましというものだな」
女 「どういう眼でうちの父さんは娘を見ているのやら」
(女、わざとらしく溜息をつく)
父 「件の母親未満にとっては赤ん坊が生まれることが迷惑だったんだろうな」
女 「だからって、自分の子供を殺して良いわけはないよ。命はかけがいのない大切なものなんだから」
父 「なるほど、命は大切なものなのか。俺や母さんの命もお前にとって大切なものなのか」
女 「もちろんだよ」
父 「なら。例えば、日本の裏側、ブラジル辺りの、一度も会ったことのない、これからも会うことがないだろう男の命も大切なのか」
女 「え」
父 「銀行強盗、間が悪くお前が人質になった、その銀行強盗の命も大切なのか、お前は」
女 「そんなのわからないよ」
(父、少し笑う)
父 「いつだったか、新聞に日本人は命の大切さを初めから知らないと書いてあったことがある。命の大切さは普遍的なものだ。つまり、どんな命も大切だと言い切れないうちは、そんな言葉は偽物だということだよ」
女 「凹むなぁ。父さんは意地悪だ」
(父、愉快に)
父 「謝るよ。大切な娘が凹み過ぎて自殺でもしたらかなわんからな」
(冷蔵庫を開ける音)
女 「百年先、私が父さんの死に水をとってあげるさ。さて、冷蔵庫は、なんもないなぁ。父さん、朝から何か食べたの」
父 「動かないからな、腹も減らない」
女 「そんなこと言ってると、動かない、じゃなくて、動けないになってしまうよ」
(冷蔵庫を閉める音)
女 「ご飯、食べに行こう。母さん、どうせ、旅先で美味しいもの食べているんでしょう」
父 「そうだな、出かけるか。外で食べるのは久しぶりだ」
女 「父さん、何食べたい」
父 「お前は何が食いたいんだ」
女 「優しくて美しい、とっても親孝行な娘が自腹で父さんに美味しいものを食べてもらおうっていうんだからさ、自分の好きなのを言ってよ」
父 「不思議なものだな」
女 「ん、何が」
父 「お姉さんと呼ばれるのか、それともおばさんと呼ばれるのか、その端境の娘なのに、親から見れば、まだまだ、小学生にもならない子供のように思えて仕方がない」
女 「困ったもんだよね、親ってのは」
父 「そうだな、困ったものだ。齢を取ると目が悪くなって二重写しになるんだ、今のお前と子供の頃のお前とがな」
女 父さん、懐かしそうに少し笑みを浮かべる、いま、子供の私、どんな表情をしているのだろう、笑顔、浮かべているのかな
父 「そうだな、中華でもするかな」
女 「中華いいね、思いっきり食べよう」
父 「確か、商店街にあったろう」
女 「そうだ、あったよね、豚の角煮が美味しいお店」
女 「ね、父さん」
父 「なんだ」
女 「子供の頃のあたしって、可愛かった」
父 「ああ、自分の娘だからな」
女 「あたしのこと、大切だった」
父 「大切に思っている、今も昔もな」
(女、照れたように)
女 「ありがとう、大切に思ってくれる人がいる、へへ、それが嬉しい」

(商店街の賑わい)
女 一歩先を歩く父さんの背中。あたしが初めて父さんに会ったのは、小学一年生だった、新しいお父さんよ、って気楽な様子で母さんがあたし達三人を前にし 紹介したんだ。父さんの一瞬、戸惑った顔を忘れない、母さん、自分は独身で子供も当然いないって言っていたらしい、まさしく、結婚詐欺だ、でも、すぐによ ろしくって、父さん、あたしたちに笑いかけてくれた

(商店街の中華料理店、扉を開ける音)
店員 「いらっしゃいませ」
女 空いたテーブルにつく。几帳面に背を伸ばして座る父さん、いつもの癖だ
女 「小皿もらって、一品ずつもらおう。その方が、いろんなの、食べられるよ」
父 「それもそうだな、お前は若いんだからたくさん食べろ」
女 「父さんこそ、しっかり食べて体力をつけてくれないとさ、父さんが寝たきりになったら私が介護しなきゃならないみたいだし、元気にしててくれないと大変だ」
父 「大丈夫だ、お前にはお前の人生がある、お前の世話にはならんよ」
女 「力強いお言葉、ありがとう」

女 餃子にチンジャオロース、もちろん、角煮。いくつかをまとめて注文する。冷えた水を少し口に
含む、なんだか良い感じだ。ん、写真入りのお品書きを見ている父さんの顔
父 「どうした」
女 「親子しているなぁって、自分の親孝行ぶりに感動していた」
父 「気を使いすぎるな、元気でいてくれればそれだけでいいんだ。ところで、お前、うまくいってい
るのか」
女 「えっ」
父 「亭主殿とうまくいっているのかってことだ。結婚した娘が不意に戻って来て親孝行をしだす。
鈍感な男親でも、家で何かあったのか、くらいは思うものだ」
(「いいの」は問いかけるように)
女 「あるけど、言うと、あたし、泣き出すかもしれない、いいの」
父 「ああ、泣きながら餃子を食え。思いっきり食って、思いっきり泣けば、すっきりして良い道筋も見えてくるものだ」
女 「それが泣けないんだ、自制心が強すぎて」
父 「娘は父親と似た男と結婚する傾向があると何かで読んだが、お前は、お前自身が俺に似てしまったようだな」
女 「父さんも自制心が強いの」
父 「あぁ、こんな娘と向かい合って飯を食おうというんだからな」
女、小さく笑いながら。
女 「ひどいなぁ、父さんってば。でも、なんだかそういうのも嬉しいんだ、今はね」

女 角煮が最初に来た、小皿にとりわけお箸を添えて渡す。なんでもない、こんなことが嬉しい、ずっと一人で食べていたから

(女、電話口にて、夫と話す)
女 「晩御飯、食べないの。そう、帰りが遅くなるの。え、ううん、そうじゃないけど、たまには一緒に晩ごはん食べたいかな、とか・・・、ううん、ごめん」
(電話を切る)
(力が抜けていくように)
女 なにを謝ってんだろう、私は。謝る理由なんてないはずなのに。心が、私の心、崩れてしまいそうだよ

一瞬、すべての音が消える。
女 私は白を拒絶する、あの黒い傘の女の子から逃げ出した。本当は・・・、本当は。道の向こう側、立っていたあの子。 私も道の向こう側へ行かなきゃと思った、しっかりと抱きしめてあげなきゃって思った、それなのに。私はおびえて立ちすくんだ。どうしておびえたんだ。そん なに今の生活にすがりたいのか。
父 「どうした、ぼぉっとして」
女 「ううん、なんでもない」
女 父さん仕方無さそうに笑った。
父 「まるで迷子だな。流され続けて、自分の道を見失い、立ち尽くしているようだ」
女 「なら、どうすればいいの、私」
父 「お前の真っすぐを行けばいい、それだけのことだ」
女 「真っすぐ走ったらすぐにぶつかってしまうよ」
女 父さん、いたずらっぽく笑みを浮かべた。
父 「人の体は七十パーセントが水ということだ。水というものは、動かなければ腐ってしまう。人も
な、動いて行く、変わっていく、そうしないと腐ってしまうぞ」
女 「私が腐りだしているっていいたいの」
父 「少なくとも気持ちはくさっているだろう」
女 「まっ、そうだけど」
父 「ぶつかっても、足を止めるな。走り続けていればそのうち何処かに行き着くし、案外、そこが
自分の行くべきところだったりするもんだ」
女 そういうと、父さん、豚の角煮を頬ばる。
父 「お前も食え、悩んだ時は食う。そうすれば頭へ回る血が胃腸へ流れて、悩まずに済むというものだ」

父 「俺は子供の頃から金科玉条、大切にしてきた言葉がある」
女 「理性に対して常に正直であれ。耳にたこができるほど聴かされた」
父 「それを忘れるな。心の真ん中に立てておけ」
女 「父さんはほんと、頑固な人間だな。母さんも苦労が絶えないだろうね」
父 「俺の石頭は」
女 「面倒なことに、末っ子の私が引き継いでしまった。子供の頃から姉さん羨ましく思っていたん
だ。私もあんなふうに自由に振舞うことができたらなぁって」
父 「あきらめろ、人の性分はかわらん」
女、少し笑う。
女 「自分の性格、納得しているよ、少しだけ気に入っている」
女 お茶をいただく。どうしてだろう、いろいろ悩むこともあったはずなのに、私、父さんと話してすっ
かり和んでいる。こんなに気持ちが落ち着いたの何年振りだろう。
父 「少し顔がやわらかくなったな」
女 「わ、私だって、色々あるんだよ、色々さ」
父 「そうだな。生きていれば色々ある」
女 父さん、仕方なそうにほんの少し笑みを浮かべる。こんな表情も、父さんするんだ。
女 「別にさ、子供が嫌いってわけじゃないんだ。ただ、今の私には無理だよ。なんていうかな、子供が居ることでたくさんの何かを得ることができるだろうと 思う。でも、きっと、失うもの、失わなきゃならないものがある、いまはそれがいとおしい。たまにね、姉貴の子供、世話するのはいいんだ。でも、それが自分 の子供でずうっと世話しなきゃって思うと不安になるんだ。足元がふらふらして倒れそうになるんだ」
父 「おまえは生真面目すぎるからな、その上、臆病だ。生真面目だけなら、まだ良かったんだがな」
(女、深く、溜息をつく)
女 「厳しいなぁ、父さんは。私、どうしたらいいんだろう」
(父、少し笑って)
父 「年老いた親にすがるんじゃない。まっすぐ行けばいい、勇気を持ってな。それだけだ」
女 「ね、父さんは悩みとか、ないの」
父 「ある」
女 「私のこと」
父 「ん」
(父親の声音を真似るように)
女 「上の二人はうまくいっているのに、末っ子はどうしようもないな。甘やかしすぎたか」
父 「まぁ、甘やかしすぎたのは違いないな。上の二人とは、年も離れていたからな。しかし、お前達がどう生きていくかは、お前達自身が悩むこと、俺が悩んでもしょうがないだろう」
女 「それじゃ、母さんのこと」
父 「朝から晩まで居なかった人間が、急に、一日中、目の前でぼぉっとしているわけだ。うっとおしくもなるだろうな」
女 「夫婦仲、うまくいってないの」
父 「いや、悪くはないだろう、良くもないがな。お互い、空気と喧嘩してもしょうがない、そう思っているだろうな」
女 「少なくとも父さんは母さんを空気と思っているわけだ」
父 「透けて見えるわけではないがな。まぁ、それでも悩みというほどのものではない。うまく言えないが・・・」
女 父さん、少し顔を傾げる、父さんは何かをしっかり見ようとすると、顔を傾げる、左右の視力がかなり違う所為だ。父さん、何を見ようとしているのだろう。
父 「年をとって、暇になると妙に子供の頃が甦ってくる、無性に子供の頃に戻りたくなる」
女 「子供に戻って人生をやりなおしたいとか」
父 「いや、子供の頃に戻りたいというのは正確じゃないな。子供の頃に見た風景、出会った情景、出会った人達に会いたい、そう思えて仕方がない。なんだか、取り残されてしまったような気がするのさ」
女 「父さんの叔父さんはまだ生きていたっけ」
父 「俺が子供の頃に出会った人達、その出会った頃のままに会いたいってことだ。人生の中で、少しずつ組み上げていったはずのジグソパズル、完成したつも りでいたのに、気づけば、虫食いしたように、あちらこちらのピースが落ちて何処かに行ってしまっている。それをなんとか、拾い集めたい、そんなことをな、 考えてしまう」
女 「私ほどの親孝行な娘でも、それは無理だ。私も年をとったらそんなふうに考えるのかな」
父 「さぁな、ただ、俺もこの先、それほど長く生きるわけじゃないが、なんとか生きていく。子供の世話にはならんよ。お前は自分を精一杯生きていけばい い、臆病でも、何が大切で、何が必要じゃないか、見極める目はあるはずだ。人生は思うより短いぞ。人は生まれた瞬間から死へと走り始めているのだからな」
(女、思い切ったように)
女 「あのね、訊いても良い」
父 「なんだ」
女 「ねぇ、父さんはどうだったの、いきなり子供が三人も出来てさ」
父 「自分以外は他人だ、親であろうと、女房であろうと、兄弟であろうと、子供であろうとな。だから、無理して家族を装おうとも思わなかった、ただ、一生 をかけた実験なのかも知れないとは考えた、俺達は家族だと思う、その思いの繋がりが、血の繋がりを越えることができるかどうかのな」
女 兄貴も姉も私も、父とは親子だけれど血は繋がっていない。母の連れ子だ。だから、父さんには血の繋がる人はもういない。
女 「実験は成功だったの」
父 「わからん」
女 「どうして」
父 「俺も当事者だ、外から観察も分析もできるわけじゃない、間抜けなことだな。ただ」
女 「ただ」
父 「良い娘と息子がいてくれて良かったと思っている。俺も歳食ったな、臆面もなくこんなことを言うとは」
女 私はこの目の前にいる人が自分の父親と素直に思うことができる。まだ、小さかったからだろうか、兄さんや姉さんはいまも 血の繋がる人と付き合いがある、私は絶対にあの人には会わない。多分、大切なのだ、目の前の、無骨で不器用で、真面目なだけが取柄の父さんが
女 「あのね、父さん。・・・あのね」

女 初めて、黒い傘の女の子のこと、・・・話をした。

(道路沿い、雨上がりの車の行き交う音)


女 父さんと二人、歩道に設えられたバス停のベンチに座る。 バスで帰るわけじゃない、ただ、父さん、ふいっと思いついたようにベンチに座ってしまったのだ、そして、車の行き交う夜の道を眺めている。
父 「子供の頃のことを、ひとつ、思い出した」
女 父さんが道を眺めたまま、呟いた。
父 「とても大切なことなのに、大人になると忘れてしまうことがたくさんある、そんなひとつだ」
女 どうしてだろう、一瞬、父さんが小学生くらいの少年に見えた気がした。
父 「理性において正直であれ、その言葉を忘れるなよ」
女 「え・・・」
父 「お前は命は大切だと言った。でも、日本の裏側、ブラジルの見知らぬ男の命は大切かどうかわからない」
女 「どうしたの、父さん」
父、小さく笑う。
父 「お前の大切なものが、例えば、鞄や指輪、お前にとってはとても大切なものであっても、父さんにとっては、特に大切なものではない、つまりは、その存在の大切さは、そのもの自体に存在するのではなく、関係性の上にあるものだ、それはわかるな」
女 「う、うん」
父 「でもな、命の大切さは違う。命の大切さは、それ自体に宿っているものだし、そうあるべきなんだ。だから、お前はブラジルの見知らぬ男の命も銀行強盗の命も、父さんや母さんの命もすべて大切だと言い切ることが本来であり、それがまたお前自身の命を大切にすることであり、その大切さを担保することなわけだ、しっかり覚えておけよ」
女 父さん、そういうと、ベンチの背もたれに背中を預け、目を瞑ってしまった。どうしたんだよ、父さん。幹線道路、目の前をヘッドライトを灯した車が何台 も行き交う。風が少し冷たい。父さん、帰ろうよ、暗いのは嫌だよ。ふと目の端に黒い影が見えた。傘、黒い傘だ。ぎゅっと父さんの手を握った。
父 「ん、来たか」
女 父さん、体を起こすと、ゆっくり振り向いた。
父 「後ろを見てみろ」
女 ゆっくりと振り返ってみる。黒い傘が目の前にあった。目深に傘を差していて上半身は見えないけれど、黒いスカートとその足元だけが見えた。
父 「選びなさい、この子を受け入れるか、拒絶するか。どちらを選ぼうとお前は俺の娘だ、それにかわりはない」
女 「父さんてば、わけがわからないよ。どうしたらいいの」
父 「この子に寄り添いたいか、拒絶したいか、それを選べばいいだけだ。拒絶すれば、この子は二度とお前の前には現れない。拒絶しなければ・・・、それは俺にもわからん」
女 どうしてだろう、恐怖や不安よりも、初めてこの子がいとおしく思えた。寂しくはないのだろうか、傘の影で泣いてはいないのかと思う。自然とベンチから立ち上がっていた。 黒い傘の女の子が不意に後ずさりし、背を向けると歩き出した。
父 「それもありか。さてと、歩くか」
女 黒い傘の女の子の後を追って歩く。幹線道路の歩道、橋の手前を折れて、土手を歩く。今度は、土手を離れて、細い路地。家灯かりが濡れたアスファルト道 路を鈍く照らす、赤ん坊のような猫の泣き声、意味の分からない人の言葉、まるで異国を歩いているようだ。一瞬、光が目に差し込む、繁華街、酔った男と女が 大声を上げる。横断歩道を渡り、向こう岸へと行く。確かに人の言葉だけれど、妙にくぐもって何を話しているのか分からない。
女 「お父さん」
女 父さんの手をぎゅっと握った。
父 「父さんに「お」が付くのは久しぶりだな」
女 「何処へ行くんだろう」
女 少し前を黒い傘の女の子が振り返らずに歩き続ける、何処まで
父 「わからんな、ただ、これは方違えだ」
女 「なんなの、それ」
父 「目的の場所へ真っすぐ行かずにあちらこちら方向を変えながら目的地へ向かっているんだ」
女 「どうして」
父 「それが目的地へたどり着く唯一の方法だからだろう」
女 いつの間にか、住宅街に出た。瀟洒な住宅街が続いている、でも、なんだか変だ
父 「変だな、そうか、街灯も窓明かりも、灯り一切がこの街にないんだ」
女 でも、なんだか赤い。夜の中に急に西日が入って来たみたいだ、そっと、後ろを振り返って
父 「後ろを見るな。お前では耐えられんだろう」
女 「お父さん、それって」
父 「珍しいところに来たということだ。角を曲がるぞ」
女 お父さん、ぎゅっと手を握って、少し駆け出す。黒い傘の女の子を追って、角の家の向こうを曲がった。
女 「女の子がいない、見失った。」
父 「ああ、そうだ。捜せということだ」
女 そう言って父さん、ポケットからボールペンを取り出した。
父 「歳を取るとな、物忘れがひどくなる、だから、いつも書くものを持っているというわけだ」
女 父さん、私にボールペンを手渡した。
父 「掌の上にそれを立ててみろ。そして倒れた方向へ向かえばいい」
女 「子供みたいだ」
父 「本当のまじないは得てしてそういうものだ。大人の了見、思案というものが、真実に霞をかけてしまう。ボールペンを摘む指の力加減、受ける掌の角度、それが行く道筋を教えてくれる」
女 本当に行きたいところ、本当に。私、やっぱり、あの子に会ってみたい、ううん、どうしても会わなきゃならない。どうしても・・・。左の掌を星の空に向ける、立てたボールペンは、これは羅針盤だ。私と父さんは、夜の海、二人、漂っている。ボールペンは左に倒れた
父 「左だな」
女 「うん」

女 随分歩いた。どれくらい、ボールペンを手のひらに、辻を曲がったろう。変だ、ほのかに赤い住宅街、朝が来ても良いくらい歩いたはずなのに。
女 「父さん」
父 「どうした」
女 「なんだか、変だよ。」
父 「あぁ、変だな。」
女 父さん、平気なふうに言う
女 「もう朝が来てもいいはずだよ」
女 「どうしてだろう、目が慣れたのかな、少し明るくなった気がする」
父 「上だ、空を見上げてみろ」
女 なんなんだ、空一面が赤く炎に燃えている
女 「空が、空が燃えているよ、空一面が炎に焼かれている」
女 父さんと私を空が紅く照らし出す。並ぶ家々も燃えるように赤く染まり、道路も赤く鈍色に輝いている。立ち止まってみる、雨の降った後か、アスファルト道路の窪みに溜まった水溜まりが紅く燃える空を鮮やかに映しだしている。
父 「つまりはな、向こうから来てくれる内に会っておけば簡単だったということだ」
女 「私、何がなんだかわからないよ」
父 「もう一度訊いておこう、お前はその黒い傘の女の子とやらにどうしても会いたいのか。会わずに済ませられないのか」
女 「会いたい、どうしても会いたい。なんだか、いとおしくて仕方がないんだ」
父 「仮に自分自身が死ぬようなことになっても、それでも会いたいか。会わなきゃならんのか。」
女 穏やかに言う父の声。私、睨むようにして答える
女 「どうしてかわからない、でも、どうしても会わなきゃならない。・・・死ぬのは嫌だけど」
女 父さん。ぎゅっと唇をかみしめて、おもむろに口を開いた。
父 「大きな願いを叶えようというなら、それにふさわしい代償が必要だ。昼と夜の狭間、お前は炎に燃えるあの空へと身を投げなければならん、落ちていかなければならない」
女 「空へ墜ちるって」
父 「道路の少し凹んだ水溜まりだ、水溜りが空を映しているだろう」
女 赤い水溜り覗き込む、確かに茜色の空だ、空そのものが紅蓮に燃えている。
女 お父さん、いくつかの茜色の水たまりを覗き込んで、一番大きい水たまりの前で足をとめた。
父 「これなら人が通ることができるな」
女 「お父さん」
父 「ん」
女 「黒い傘の女の子は」
父 「ここから空へと落ちて行ったんだろう。もうすぐ炎が燃え尽きてしまう。追うなら今のうちだ、闇に戻ってしまうと、黒い傘に阻まれて、あの子を見失ってしまうだろう」
女 「ここを通り過ぎればいいの」
父 「そうだ、だが、俺はここまでだ、お前が一人で行きなさい。行くか」
女 「行きます。なんか、変だね。あんなに怖がっていたのに、今は、気になって仕方がない、あの子のためならなんだってできる気がするんだ」
父 「まるで母親だな」
女 父さん、少し笑うと、水たまりの縁に腰を下ろし、あぐらをかいた。
父 「俺は星の一つになってここから見守っててやろう。どうしてもの時は俺のこれからのすべてを代償に、お前を引っ張り上げてやる。さぁ、行きなさい」
女 「お父さん、ありがとう。行きます」
女 茜色の水たまりへ飛び込んだ、地面が消えた。熱い、私の体が炎を噴き出して燃える・・・、燃える空と一つになる


(お昼過ぎ、時計の音。自宅)
女 あれ、目が覚めた、昼下がり、私、洗濯物を終えて、テーブルに座ったまま居眠りしていたんだ。居間のテーブル、食べかけのお煎餅の袋。テレビもついたままだ、そうだ、久しぶりの休日、思いっきり洗濯するぞって・・・ 違う、これは違う、本当じゃない
(ドアを開け放つ音、駆けだす)
女 ドアを開け、外に飛び出した
女1 「あら、どうしたの。そんな、慌てて」
女 隣の叔母さんだ
女1 「何処へいらっしゃるの」
女 「子供を、黒い傘を差した女の子を見ませんでしたか」
女1 「そんな子は捜さなくてもいいわ」
女 「えっ」
女 おばさん、いつもと変わらない笑顔を浮かべたまま、薄れるように消えてしまった。な、なんなんだ。とにかくあの子を探さなきゃ。早く、早く
男1 「おおぉい、どうしたんだい、そんな走って」
女 あれは、あれもそうだ、斜向かいのおじさん、定年退職、今時珍しく悠々自適のおじさんだ。
男1 「どうしたんだい、そんな慌てて」
女 「黒い傘を差した女の子を見ませんでしたか」
男1 「だめだ、捜さなくて良い、そうだ、かなえとお茶でもしていきなさい」
女 「急いでいますから、ごめんなさい」
女 えっ、ふうぅっと叔父さんの姿と後ろの風景が重なって消えた。どうして、人がそんなふうに消えるんだ、夢か、あたし、夢を見ているのか。何もかも夢なのか。
少年 「すべてはゆめまぼろし、巨人の見たほんの一時の夢、君の人生はその断章ですらないのさ」
女 少しひねくれた顔付きの男の子が私の前にいた。何処かで見たことがある、この顔。
少年 「お姉さんは真っ直ぐを知らない。だから、まっすぐの嫌いな奴らの言葉に惑わされる。右手を左の胸、心臓の上だよ、当ててご覧、心臓の鼓動わかるかい。」
女 「分かる、どくどくいってる」
少年 「それが、お姉さんの真っ直ぐだ、そうやって手を当てていれば惑わされないよ」
女 「君の顔、何処かで見たことがある。」
少年 「僕はお姉さんの顔を知らない、今はね。さぁ、もう時間がない、急いだ方がいいよ」
女 「うん、ありがとう、お父さん」
女 そうだ、父さんだ、写真で見たことがある、子供だった頃の父だ。少し手を上げて笑う男の子、君、いい男になるよ。走れ、私は臆病でひきょう者だ、もっと早く受け入れてあげれば、きっと、きっと。
女 まっすぐ、まっすぐだ、塀も家も擦り抜けて、ひたすら真っすぐ走る、真っすぐ走る
(心臓の鼓動、少しずつ早くなる。最後に鈴の音一つ)

女 茜色の水たまりは凪いだ夜の海に変わった、静かな海だ。満天の星空を海が映しだ し、なんだか、上下天地があやふやになるくらい明るい。足もとの海、きらきらと漣が無数の星明りをきらめかせている。陸が見えない、ひたすら夜の海のただ 中に、私は佇んでいる。私は死んだのか、海に沈むことなく浮いているなんて。両の掌を合わせてみる。ぶつかる、透けたりしない、少ししゃがんでみる。 水、確かに水の感触だ、少し冷たい、ひんやりしている。ん、誰かがいる、顔を上げた、あれは。思いきって声を掛けてみる。
女 「こんばんは」
女 ほんの少し先、黒い傘をさした女の子がいた
女「大きな傘だね、黒色の、お父さんの傘かな」
女 なに、つまんないこと言っているんだ、私は
少女 「ありがとう」
女 初めて、女の子の声を聴いた。やわらかい、でも、ほんの少し大人びた声だ
女 「ありがとう、もっと早く君に声をかけて、かけてなければならなかった、ごめんなさい」
少女 「ううん、声をかけてくれただけで嬉しい、だって、これはあたしの我が儘だから」
女 「どうしてか、わからないけれど、君にとても会いたかった。会わなきゃって思ったんだ」
少女 「それは多分」
女 「多分・・・」
少女 「あたしが会いたいと願ったから」
女 「君は誰、君の名前、教えて欲しい」
少女 「あたしには名前がない」
女 「その黒い傘を降ろして君の顔、見せて欲しい」
少女 「あたしには名前がない、だから、顔もないんだ」
女 「君は、まだ誰でもないってことなの」
女 女の子、肯いて。ううん、傘で顔が見えないくせに頷いたのがわかったんだ
(女、思い切って)
女 「君が自分のこと、誰でもないというなら、私が決めてあげる、君は私の娘だ」
少女 「いいの」
女 「いいよ、君は私の娘で、私は君の母親だ」
女 少女がゆっくりと黒い傘を降ろしていく。あどけない、でも少し緊張した少女の顔、唇をぎゅっと結んだその顔は私の子供の頃の姿だ。父さんに初めて会っ た時の顔だ。私、ゆっくりと女の子に近づき、そっと顔を寄せた。髪をなでる、女の子、少し戸惑ったように目を伏せた。そして、ゆっくりと、私の胸に顔をう ずめてく。
少女 「自分で選んだくせに、どうしようもなく心細くて、頼ってしまった、ごめんなさい」
女 「母親なんだもの。頼ってくれるのも楽しいんだ」
少女 「お母さんを苦しめてしまうことがわかっいたのに、本当にごめんなさい」
女 「謝ることないよ。さぁ、一緒に帰ろう、そして、一緒に暮らそう、私がお母さんだ。ね、一緒に帰ろう」
少女、囁くように。
少女 「ごめんなさい、最後の最後でとっても迷惑をかけてしまって」
父、不意に現れる。
(父、疲れ果てた様子で)
父 「年寄りにこの道行きはきついな」
女 「お父さん」
(父、哀しげに)
父 「やはりな。この子は流れを変えることを選んだ天の川の堰守、流れを自分たちの体で堰き止めて、違う道筋を与えるなどと、最悪な、そしてあまりにも純粋な選択をした子供たちだ」
女 「堰守って・・・」
父 「待っているつもりだったのだが、気になってやってきた、来て正解だったな」
女 お父さん、ほっと息をもらすと、座り込んで、女の子に哀しげな笑みを浮かべた。
父 「歳をとると、最近のことは思い出せないくせに、ついぞ、昔のことを思いだしてしまう。だから、君の切な思いも少しはわかる」
女 お父さん、ゆっくりと立ち上がった。
父 「聴きなさい。星占い、占星術。人の人生は星に導かれる、そして、星の川、天の川は、たくさんの人、つまり時代を導いていく。今の時代はすっかり狂っ てしまっている、勝手な理屈で人間同士が殺し合う。命の大切さが忘れ去られた時代だ。この時代の流れをなんとか本来に導かなければならないと、この子達は 考えたんだよ」
女 お父さん、ゆっくりと空へ指さした。
女 あ、満天の星空に、いくつもの、数え切れないほどたくさんの、黒い傘の子供達が空へと、空へと墜ちていく。本当に落ちていく。
父 あの子達は天の川に、その身を沈めて堰を作る。天の川がいつか溢れ、その流れが変わるように。本来の流れへと変わりますようにとな。そして、見るはずだった自分達の親や、生まれることを選んだ子供達が幸せに生きていけますようにと切に願うのだよ」

女 ゆっくりと、女の子の体が浮き上がりだした。
少女 「ありがとう、お母さん」
女 どうして、どうしてなんだ
父 「母親として、顔を上げて、しっかり見ておきなさい、この子の選んだ道は変えられないんだ」
女 「やだよ、お父さん」
(父、女に囁くように)
父 「顔を上げなさい、しっかりと見てやりなさい」
女 ぎゅっと、歯を食いしばって顔を上げた。空に落ちていくあの子、片手でそっと手を振ってくれた。
(女、叫ぶ)
女 「幸子(ゆきこ)、幸せな子供と書いて幸子。君の名前だ、幸子」
女 あたし、思いっきり手を振る、体いっぱい、手を振る。肩が千切れてもいい、狂ったように手を振る。幸子、黒い点になって、消えてしまった・・・。
女、呻くように。
女 「うわぁぁっ。幸子」
父 「右の手のひら、心臓の上に置きなさい。どくどくという音がわかるか」
女、息苦しそうに。
女 「うん、とっても大きく伝わってくる」
父 「あの子の笑顔、見えたか」
女 「うん、手も振ってくれたよ」
父 「そうか。親として名前も付けてやれたな」
女 「うん」
父 「大人の我儘や醜い思いで、世界は狂いだしている。それを、子供が、それも生まれる前の子供が、生まれることをやめにしてまでして、正していこうなんてな。どうにも情けない、大人は」
(女、呻くように)
女 幸子。見える、君が見えるよ。深い川の底、たくさんの子供たちが目を瞑り沈んでいる、傘を手放した幸子が膝を抱えて沈んで行く。ぎゅっと唇を引き締めて、眼を瞑り俯いている、幸子。
父 絶望するなよ。たった一人でも世界を変えることは出来る、諦めさえしなければな
女 え
父 世界が善い方向へと向かえば、あの子の、幸子の役目も終わるってことだ
(女、勢い込んで)
女 頑張る、何をどう頑張ればいいのか、まだわからないけど、でも頑張る

(雨の音、車の行き交う音)
女 バス停だ、夜のバス停、お父さんと二人座っていた。今までのことって・・・、あれは夢じゃない、本当のことだ、幸子を抱き締めた、この手のひらは幸子を忘れない
父 お前が幸子を忘れずに信じ続けてやれば、あの子はお前のことを思い続けることができる、笑みを浮かべていられる、わかったな
女 お父さん、黒い傘を私に手渡してくれた。頑張るよ、私。幸子と暮らせるように頑張る

終わり

 

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「夕さん」続編を書くかも

..20151111

2015.08.19

人形の女の子をどう扱うか

20150804

続編を書いてみようかなと思います。

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ひとめふため

ひとめふため

以前、ネット上にて素人同士でオーディオドラマを作ろうという企画「おとつれせんプロジェクト」がございました。
その企画に提供したシナリオです。お話は童歌から始まります。

001 夜である。夜であることは会話からわかってもらうこと。列車の中である。
002 あけみ1 ひとめ
003 あけみ2 ふため
004 あけみ1と2 みやこし、よめご
005 あけみ2、ちいさくあくび。
006 あけみ1 あけみ。もう、遅いからさ。朝、ついたらね、起こしてあげる。
007 あけみ2 でも、一人で起きてるのって、あけみは寂しくないの
008 あけみ1 なんだ、あけみ。気遣ってくれているの
009 あけみ2 だって
010 あけみ1、少し笑って。
011 あけみ1 それじゃ、あけみ。もう少し、起きていてくれる。
012 あけみ2 うん、そうする
013
014 あけみ1 窓に映る自分の顔
015 あけみ2 え
016 あけみ1 夜はさ、あけみ。列車の中が明るくて、外が暗い。だから、窓に顔を近づけても、自分の顔しか見えない。
017 あけみ2 そうだね、でも、あけみ。ほら
018 あけみ1 どうしたの
019 あけみ2 すうぅっと顔をガラスに近づけてみて。ね、あけみ、鼻の頭がガラスにくっつくくらい
020 あけみ1 はは、あけみ、変な顔
021 あけみ2 でも、あけみ。でもさ、見える
022 あけみ1 何が見えるの、あけみ
023 あけみ2 黒い瞳の向こうに夜が見える
024 あけみ1 黒い穴二つ、外の風景が見える
025 あけみ2 あけみ、遠く外灯があるよ
026 あけみ1 白い光が流れていくね、あけみ
027 あけみ2 ね・・・、あけみ
028 あけみ1 どうしたの、あけみ
029 あけみ2 いつからかな。とっても、とっても、大事なこと、忘れている気がするんだ
030 あけみ1 大事なこと
031 あけみ2 うん
032 あけみ1 大事なこと・・・。そうだね。とっても大事なこと、忘れている気がして。でも、どうしても、それが、なにか思い出せない
033 あけみ2 あけみ、人が。窓の外に人がいるよ
034 あけみ1 人って、夜だよ。誰も外にいるはずないじゃない
035 あけみ2 でも、瞳の向こうに外の人たちが見える
036 あけみ1 外の人たちって、あけみ。この列車、走っているんだよ
037 あけみ2 でも、あけみ。いるんだ、何か叫んでいるよ
038 あけみ1 ほんとだ、見える。大声で叫んでいるみたいだ
039 あけみ2 泣いている人もいるよ
040 あけみ1 みんな、泣きながら叫んでいるんだ
041 あけみ1 なんて、なんて言っているんだろう
042 あけみ2 手招いてるよ、こっちに来いって叫んでいるんだよ。ね、降りよう、みんなのところに帰ろう
043 あけみ1 帰ろう・・・。え、帰るって、どういうこと・・・
あけみ2 ねぇ、帰ろうよ
あけみ1 そうだ、あたし。どうして、列車に乗っているんだ
あけみ2 早く帰ろう、帰ろうよ
あけみ1 帰る・・・、思い出した、あたし、ベッドに、病院のベットに寝ていたんだ

044 あけみ2 あけみ、窓を開けよう、力一杯開けよう
045 あけみ1 そうだ。開けよう。帰るんだ
046 窓をがたがたと。
047 あけみ2 開かない、開かないよ
048 あけみ1 どうしても、開かない
049 あけみ2 がたついているのに
050 あけみ1 思いっきり力を入れれば
051 あけみ2 開くのに、開くはずなのに
052 あけみ1 どうしても、開かない

053 あけみ2、力無く。

054 あけみ2 苦しいよ、息が出来ない
055 あけみ1 なんだか、息苦しい、水の中にいるみたいだ
056 あけみ2 あたし、もう、だめなのかなぁ
057 あけみ1 なにいってんだよ、あたし。大丈夫だよ
058 あぶくの音、次第に大きくなってくる。列車の走行音が、あぶくに変わる。

059 あけみ1 ね、あたし。目をつぶってじっとしていな。あたしがずっと起きていて、抱きしめていてあげる。だから、きっと、きっと朝が、いつもとかわらない朝が来るからね

060 あけみ1 ひとめ
061 あけみ2 ふため
062 あけみ12 みやこし、よめご・・・

063 次第に声が小さくなる。

064 あけみ1 いつやのむさし、ななやのやつし、ここのや、とおや

終わり

 

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ないふ 流堰迷子

「ないふ 流堰迷子」

列車の中にて。
女一 帰りの電車の中、あたし、通路側。彼女、彼女だ、彼女は向かいの窓側。こう、なんていうの、二人用の座席が向かい合った列車の座席って、あぁ、なんていったっけ、あぁ、そんなことはどうでもいいんだ。
彼女、足を投げ出して気持ちよさそうに眠っている。無防備なほど気持ちよさそうに寝ている。
声を、声をかけてみようか。
で、でも・・・、ほんとは何事もなかったように、すっと立って席を替えればいいだけのことなんだ、あたしの中でもう一人のあたしが叫んでいる、逃げろ、逃げろって。
・・・透けているんだ、彼女の躰。透けて、座席が見えるんだ。
あたし、おかしくなったの。幻覚、幻影、勉強のしすぎ、ってわけない、わけない。えっ、あ・・・、そうだ、そうか、幽霊だ。彼女、幽霊なんだ。
え、あたし、どうして・・・。
本当にどうしてだろう、彼女の頬に手を触れていた。
冷たいけど、なんだか、気持ちいい。
そっと、彼女が目を開ける。口がにぃぃっと微笑んだ。
消えた・・・。あぁ、幽霊だ、昼間っから幽霊だ、春なのに幽霊だ。
逃げろ、逃げろ、逃げるんだ。

女二 なんだよぉ、人が気持ちよく寝ているのにさ

女一 あたしの耳元で声がした。うわっ、目の前に顔がぁ

女二 おおい、叫ぶなよ。恥ずかしいぜ。女の子が白昼の列車の中、一人、座席で大声あげたらさ、なにぃ、この娘(こ)、変なんじゃない、ってさ、白い目で見られてしまうぜ。ふふっ。
女1 彼女、あたしに顔を寄せて、あ・・・、口づけ、やわらかくて少し甘くて、あたし、あたし・・・
女2 大丈夫さ、数には入らないよ

女1 なんだか、足の力が抜けてしまって、あたし、座席にぺたんって座り込んでしまっている。何をどうすればいいんだ
女2 何処で降りるんだ
女1 叶意町(かないまち)、二つ先の駅です
女2 時間あるね、少し、お喋りしよう
女1 にぃぃぃって笑って、彼女、幽霊さんがあぐらをかく、長いスカートだから、あ、足。足はあるんだなぁ・・・
女2 あんた、名前は
女1 私、幸子です。
女2 どんな字書くの
女1 幸せな子
女2 親の願いが詰まった名前だ、いいね、そういう名前
女1 あの、貴方は
女2 覚えてないんだ
女1 それは死んだ、いえ、あの、お亡くなりになった時のショックで
女2 いや、死んだ時は名前を覚えていた。覚えていたんだという記憶はある。結局さ、あたし、いま、一人だからさ、名前を呼んでくれる人がいないんだよ。だから、どうしても思い出せない、思い出せず、何処に帰れば良いのかもわからずに漂っている。
女1 思い出せれば、成仏できるのでしょうか
女2 さてね、そもそもさ、成仏ってどういうことかわからないよ、やったことないからさ。ただ、自分が居るべき場所があって、なんっていうかな、いま迷子になってんだって焦りばかりがある
女1 幽霊さん、ちょっと笑った、でも、それはとっても哀しい笑顔だ。
女1 名前を思い出しましょう、そうすれば、必ず道が見つかります
女2 どうしたの、いきなり
女1 あ、え、いえ、あたし・・・
女2 でも、面白そうだ、駅に着くまで女の子の名前を出し合ってみよう、なんか、引っ掛かるかもしれない
女1 そうしましょう、きっと見つかりますっ
女1 あたし、どうしてだろう、ぎゅっと幽霊さんの手を握っていた。ひんやりとしてとっても冷たい、でも、不思議、優しいんだ

間、少しずつ大きく

女1 恵子、洋子、良子
女2 あかね、明美、幸江
女1 恵美子、裕子、礼子
女2 あ・・・
女1 気になるのありましたか
女2 そうだ、「子」が付いていた気がする
叶意町、到着のアナウンス、ドアが開く音。
女2 ありがと、なんだかさ、幸ちゃんとはまた会えるような気がする。いつか会える時までに、しっかり自分の名前を思い出しておくよ
女1 嫌です、思い出すまでお付き合いします
女2 え・・・

ドアの閉まる音、列車が遠ざかって行く。
女2 列車から降りることはできる、ただ、駅からは出られないんだ。多分、降りるはずの駅が何処かにあるんだろうって思っているんだけどね
女1 ごめんなさい
女2 はは、幸ちゃん、必死な顔していた
女1 なんだか、どうしても、このまま、別れるのが寂しくて
女2 出会いに偶然はない、すべては必然だと言い切ったっ奴がいた。多分、この出会いも必然なんだろう、左の手首出してみな
女1 え・・・
女1 おそるおそる差し出した
女2 手首のためらい傷、随分とあるね。痛かったろう
女1 はい
女2 でも、痛いと感じる自分がいることで、ほんの少しだけ、生きているって実感を得ることができる
女1 どうしてだろう、泣きそうになりながら、あたし、頷いている
女1 幽霊さん、髪を一本抜いた、そして、その髪をあたしの左手首に巻いてくれた。ひんやりして気持ちが良い
女2 護り髪だ、神様の神転じて髪の毛の髪。幸ちゃんの手首に溶け込んで、髪が災いから護ってくれるだろう。
女1 ありがとう・・・、ございます
女2 しかし、護り髪、どうして、こんなこと知ってんだろう。生きている時、あたしは呪い師か詐欺師だったのかも知れないな。
女1 幽霊さんはとてもいい人です
女2 わかんないぜ
女2、くすぐったそうに笑う。
女2 今日はありがとう、あたしも久しぶりに笑った。さて、幸ちゃん、もう帰りな、そろそろ暗くなる
女1 でも、名前を
女2 今はこれ以上思い出すのは無理だ。
女1 どうして
女2 なんとなくだけどわかってきた気がする。
女2 あたしがこうして彷徨っているのは、何かの役目か、自分の罪を滅するためのやり方なんだ。
女1 役目・・・、やり方
女2 こうして彷徨って、出会うべき必然を待つってことさ。出会い、相手になんらかの益を提供することで、あたしはあたしを、ほんの少しずつ取り戻して行く。気の長い話だ
女1 あたしとの出会いはもう済んだということなのでしょうか
女2 いや、始まったということ。この出会いであたしは少し変わった。幸ちゃんも少し変わった。成長という変化を始めた。手首を切らずに生きて行ける、そんな行き方を幸ちゃんは見つけなければならないし、見つけようとするだろう。いっとき、重なった道筋は、また、離れて行く、でも、それは始まりだ。出会うことで縁ができた、この縁はいずれ、あたしを幸ちゃんに会わせるだろう。その時を楽しみにしているよ
女1 はいっ
女2 泣いた子供がもう笑った
女1 子供じゃないですよ
女2は小さく笑う。
女1 幽霊さん、手を振ってくれた。あたしも、そっと手を振る。少しずつ、幽霊さんの姿が薄れていく。消えた・・・。
女1 寂しい、とても寂しい。でも、あたしは今までで一番元気だ。前へ進んでいくことが出来る。

おわり

 

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結婚思案

『結婚思案』

あらすじ

三十路寸前になっても彼女もいない主人公、日向聡は結婚願望を抱きつつ、寂しい日々を過ごしている。そんな彼の日課の一つとして、同じ状況の友人、佐伯と一週間に一度、喫茶店で待ち合わせては、仕事の愚痴やいかにして彼女を獲得するか、などと話しては思案にくれている。そんなある日、日向の幼馴染、清水涼子の経営する喫茶店にて、いつもの佐伯との愚痴の言い合いを始めるべく、やって来たところから話が始まる。遅れてやって来た佐伯が今、まさに告白したいが、勇気がなくて告白できないのだという女性を連れてやって来る。そこで日向と清水は、何とか佐伯に告白させようとするのだが。


登場人物

・日向聡 (主人公)
・佐伯悠 (幼馴染)
・水野涼子 (幼馴染)
・日向(父親)
・客(男)
・客(女)

 

われんばかりの拍手喝采、そして口々に「おめでとう」や「とうとうやったな」などと声がかかる。
佐伯 日向、おめでとう。流石の俺もお前にはかなわんよ
日向父、マイクを持って声高に叫ぶように。
日向父 皆様、有難うございます。愚息、日向聡がこのような分極まる立場に就くことができましたのも、すべては皆々様の御力添えのおかけでございます。高いところからではございますが、私共家族、皆様への感謝の念に耐えません。本当に皆様、有難うございましたー。では、息子、聡にマイクを渡しまして
男 おおい、静かに、静かに
少し間を持たせ、日向聡、少し声を上ずらせながらも、努めて冷静に。
日向 今回このような三十歳突入祝賀会をにぎにぎしくも盛大に開催していただき
女 聡さんー、おめでとう
日向 あ、花束を、これはこれは、ありがとうございます。えー、開催していただき有難うございました。思い起こせば、三十年前、未だ開かぬ両の眼の代わりに心の眼でこの世界をかいま見、あぁ、なんてすばらしい世界なのだろうと思いましたのが私の最初の思案でございました。そして、それが三十年前の正しく今日でございます。それからというもの、皆様のご声援をいただきつ、そう、急な階段を一段一段登るがごとくの労苦に我が身を委ねて参りました。時には先人に倣い月に向かいて、『吾に艱難辛苦を与えよ』と叫んだ夜もございます。そしてこのような苦労と、なによりまして、皆様の寛大なるご支援を受け、私、(一段と大声で)今日、本日を持ちまして三十歳、三十歳、三十路となりました。
皆様のおかけです、ありがとうございます、三十路になれたなんてこんな嬉しいことはございません。ありがとうございます。あ、おひねり受付中でございます
拍手喝采、最初にも増して盛り上がる。やがて拍手が消えていき、それに代わるようにして一九世紀の英国を想起させる室内楽が流れてくる。喫茶店にて。
水野 日向ちゃん、そのうつ向いての独り笑い、哀しいものがあるよ
日向 あー、あぁ。ごめん。ちょっと考え事してた
水野 ふふ、自分の年齢のことでしょ。気にしても無駄よ。ねぇ、三十歳までに結婚相手を見つけるっての、もう諦めたら
日向 あのー、言ってくれる・・・
ドアに取付けたカウ・ベルが鳴る。
水野 いらっしゃいませ
水野 日向ちゃん、ホットにしとくよね
言い残して水野が次の客のところへ水を持って行く。
日向独白 会社がえりの若い男。いま・・・、八時。閉店まであと一時間ある。そろそろ佐伯も来るだろうし。しっかし、まぁ・・・、俺にしても佐伯にしてもまさか二十代も終わりになって、彼女の一人もいないなんて、情けない話。俺の二十歳成人式の時の予定では、今頃にはとっくに結婚して二人くらい子供がいる筈だったのに。
毎週、佐伯とここで顔を突き合わせては、どうやって彼女を見つけるかの相談と仕事の愚痴。情けないよねぇ
水野、コーヒを持ってくる。
水野 どうぞ
少しおどけたように。
水野 お仲間、遅いね。早く週間報告し合いたいのにな。ねっ、何か成果あった
日向 あったら、涼子の好奇心を刺激していません、その娘とめくるめく一時を過ごしてるよ、ああん、日向さんーってね
水野 はは、売り上げにご協力いただき、ありがとうございます
間、水野、日向の前の席に座って。
水野 ね、思うんだけど日向ちゃんって、高望み、ううん、ないものねだりじゃないのかなぁ
日向 ないものねだり・・・
水野 そっ。言い換えれば大人になりきれてない
日向 大人になりきれてないって、俺、涼子と同じ、二九歳と半年・・・
水野 しっ、声が大きい。あたしバツ一の子持ちだけど、店では、まだ、二五歳なんだから
日向 それって、詐欺
水野 人聞き悪いなぁ、喫茶店は夢を売る商売、愛嬌ってやつだよ。それに化粧とったら二十歳でもとおるんだからね
日向 あ、なるほど、確信犯ってやつ
水野 ・・・まっ、その話は横に置いといて。あたし、子供の頃から日向ちゃんって呼んでるよね。ねっ、普通、三十路前の男になってもちゃん付けなんかする
日向 まっ、確かに
水野 でも、日向ちゃんの場合、君付けやさん付けって、似合わないんだよね
日向 ちょっとむっとするけど、確かにちゃんづけされること、多い
水野 日向ちゃんは見た目、確かにおじさんなんだけど
日向 あの・・・
水野 なんだか子供なのよ。大人になり切れていないって意味でね
日向 子供・・・、っか・・・
水野 かわいそうだし、少年って言い換えてあげてもいいけどね
水野、小さく笑う。
日向 正直に言うけど、思い当たる節・・・。うん、ある
日向、考え込むようにして
日向 女性と話して、やっぱり、そう思われたらマイナスだよね
水野 思われるかどうかやなく、自分がそうであるかどうかが問題。だけど、いま、あたしが言いたいのは『ないものねだり』のこと
日向 ないものねだり・・・
水野 うん。多分、日向ちゃん、自分では意識してないと思うけど、女性に対して期待し過ぎてる
日向独白 涼子、引き込むような笑みを尾かに浮かべると、口を閉ざしてうつ向いた。彼女とは佐伯同様、もう小学生の頃からのくされ縁、この笑みにも、いい加減、慣れてはいるけれど、それでも・・・、一瞬、心臓が高鳴る
水野 あたしが結婚する前に、日向ちゃん、自分で作った小説くれたよね。せっかく買ったワープロに埃被らせておくのも、もったいないから書いてみたって。覚えてる
日向 三年前かな。『鞄』ってのやったね
水野 若い男と幽霊の淡い恋物語。こらこら人が結婚、結婚って大騒ぎしているときにって、内心思ったけど、読んでみて、あ、いいなって思った
日向 えっと・・・。それはどうも
カウ・ベルが鳴る、ドアの開く音。若い女性が入ってくる。水野、ゆっくりと顔を上げる。澄ました声で。
水野 いらっしゃいませ
日向に向かって小声で。
水野 お客さんだ、ごめんね・・・
日向独白 まどからそとをながめる振りして覗いて見る。十代後半の女性だろう・・・、先程入ってきた男と向かい合わせに座った。待ちあわせか・・・。
(珈琲をすする音)(溜め息)『鞄』か・・・、すっかり忘れていた。一度だけ小説めいたものを書いたことがあったんだ。真面目なだけの風采のあがらない男と、美しい少女の幽霊との淡い悲恋の物語
水野 その少女の幽霊が最後に男と別れるとき、これがあたしにできるたった一つのお礼です、そう言って、一輪のリンドウを彼に差しだして消える
日向 ・・・え、涼子、いつの間にか、お客に珈琲を出して俺の前に座っている
水野、笑いをこらえるようにして。
水野 二十年以上の付き合いだもの。日向ちゃんの心の中、簡単に推理できるよ
日向 ・・・なんか、落ち込んだ
水野 はは、落ち込め、落ち込め。ふふ、それで、あたしが言いたいのはこういうこと。日向ちゃんの小説は、自分の願いや思いをひたすら綴っただけ。可愛い女性、自分に逆らわぬ女性、自分の思い通りになる清純な美しい女性、そういう女性を守りたい、守ってあげたい、いや、守らせてくださいませってね
日向 わかってるよ、俺も一年ほどしてから読み返してみて、恥ずかしくなって、夜中、駆けずり回ったんやから
水野 へぇー、なるほど、ちょっとは日向ちゃんも成長してるんだな
カウ・ベルの音。ドアが開く。佐伯が入ってくる。
水野 佐伯君、遅よう、元気してた
日向 あー。佐伯は君付け
水野、軽く笑い。佐伯、二人のテーブルにつく。
佐伯 どうした、涼子。笑って
水野 ちょっと、日向ちゃんをいじめてただけ
水野 ね、いつものレモン・ティーでいい
佐伯 いや、俺、ちょっと・・・
佐伯 日向、俺、ちょっとこれから、人、送っていくから・・・
日向 送って行くって、ひょっとして・・・
水野冷静に。
水野 うん。それって、もしかして、佐伯君。・・・そうなの
日向独白 佐伯、蛇ににらまれた蛙みたいにすくんでる
急に水野、はしゃいで
水野 きゃあ、佐伯君、おめでとうー
水野、囁くように。
水野 まだ、お客さんいたんだ・・・、ほら、日向ちゃん、小さく、拍手っ
二人で拍手
水野 で、佐伯君。彼女はいずこにおわします
佐伯 いや・・・、あの。車の中で待ってもらっていて
水野 はぁー、あの・・・、もしもし。車の中って・・・。まっいいわ、ねっ、それで彼女とはどこまでいったの。言っとくけど、映画や遊園地やなんて答えたら、お姉さん、怒るよ
佐伯 いや。あの・・・。昨日から残業を手伝ってもらってて、帰りが遅くなるから送ってあげようって
日向 良いシュチュエーション。車の中って密室、仕事疲れの尾かな疲労感がなにかしら甘い零囲気を醸し出し。な、佐伯、お前は彼女のこと、どうなの

水野 佐伯君、顔、赤いよ。・・・ということは
日向 決まりっ、だね
佐伯 おい、俺は・・・。別に彼女には・・・
水野 酒も飲んでいないのに赤い顔、もつれる言葉、消え入る口調。お姉さん、佐伯君の心の内、しっかり受け取ったよ
日向 心の内って
水野 つまりはこういうこと。佐伯君は彼女と素敵な関係になりたい、だけど、あぁ、こういう状況に馴れていない俺、どうしたらいいんだ、なっ、お前ら二人、幼馴染だろ、助けてくれよ、これが佐伯君の本心。あ、それに、おい、それくらいのこと、俺が口に出さなくても察してくれよって、ふむふむ
日向 なるほど、そうか。ごめん、佐伯、俺もお前の気持ちすぐに分かるべきだったよ
佐伯 お前ら、かってに、そんな決め付ける・・・
水野 それじゃあ、こうしよう。この瀟洒な喫茶店を舞台に、佐伯君と彼女が親睦を深めあう。あたしと日向ちゃんでお膳立てするからね。さあ、佐伯君は彼女、呼んで来て
佐伯、今にも泣き出しそうな。
佐伯 お、おい
水野 佐伯君、入ったら奥のカウンター近くのデーブル、うん、そこに座るんだよ。彼女は入り口側の、カウンターが見えるほうの椅子に座らす
佐伯 待て、お前ら勝手に決めるな
水野 行くの、早く
間、日向、ぽつりとつぶやくように。
日向独白 ・・・涼子の佐伯を見据える鋭い眼・・・、二十年以上付き合ってもまだわからない。考えてみたら、俺も佐伯も小学校の頃から、涼子に最後まで逆らいきれたことがない。結局は佐伯もしぶしぶ彼女を呼びに行った。しっかりした幼馴染だね・・・
日向 なんだか張り切ってるな、涼子
水野 あたし、面白いこと大好きだもん
日向 人の恋路の行く末、楽しんでるな
水野 友達の幸せを手助けできる、あぁ、友人冥利に尽きます
日向 ものはいいよう。なっ、俺はどうしたらいいの
水野 簡単、簡単。あたしが合図を送るから、そうしたらすっと彼女の横に座って、『よぉ、彼女、こんなつまんない奴、ほっといて俺といいことしよう』って、彼女の肩に腕を廻す
日向 あの・・・
水野 そこで佐伯君が、『君、失礼じゃないか』って、すっくと立ち上がり日向ちゃんの襟首を掴んで
日向 いててて・・・。ごめんなさい、二度とこのようなことはいたしません
水野 そっ。そしてすごすごと日向ちゃんは退場
日向 ええ加減にしなさい
二人で。
日向・水野 失礼しましたー、ちゃんちゃん
日向 つまんないことを・・・
水野 今度は真面目、真面目。日向ちゃんはうちの合図ですっくと立ち上がり、たったっと店を出て行って
日向 きゃー、無銭飲食。誰かつかまえてー
水野 そこへすっくと佐伯君、立ち上がり・・・。はは、二人で遊んでても仕方ない。三度目の正直。しっかり、真面目。日向ちゃんはあたしとカウンターで喋ってくれてたらいい、話の内容はあたしが先導する。そう、切々とあたしへの恋心でもうちあけてくれてたらいいかな。で、適当なところで、あたしが話を切り上げるから、そうしたら、とっとと帰って
日向 え・・・、帰るの。待てよ、俺も友人として最後まで見届ける義務がある
水野 ふふ、義務ときましたか。ね、日向ちゃんは裏口、知ってるでしょう、そこからぐるっと廻ってカウンターの中にひそんでいて。あたしもすぐに行くことになるから
日向 一応は佐伯と彼女が二人っきり
水野 そう
日向 なんか、気まずくならないか
水野 大丈夫、あたしがうまく話を持って行くから。だけど、詰めは
日向 佐伯自身の問題
水野 そういうこと。九割方はこっちで段取りするんだよ、最後の詰めは本人にしめてもらわないとね、なんだか、出来の悪いの彼女に押しつけるみたいで、心が残るもの
カウ・ベルの音。
日向独白 佐伯と彼女が入って来た。佐伯・・・、顔、引きつってる・・・
水野 いらっしゃいませ
少し離れた位置から。
佐伯 ね、清水さん。眠気醒ましに珈琲でも
日向独白 あいつ、意味不明なことを・・・、彼女きょとんとした顔してる。だけど、俺も研究しておこう。こんな時の台詞
佐伯 さ、さぁ、清水さん、どうぞ
椅子を引く音。
日向独白 佐伯、ご丁寧にも彼女に椅子引いて・・・。あれ。涼子が言ってた方と反対の椅子・・・
水野、押し殺した声で。
水野 あいつは、もう・・・
ささやくように。
日向 佐伯、頭ん中、極度の緊張でパニックみたいだね
水野 仕方ない・・・
一瞬の風の流れる音。
日向独白 うっ、涼子、片手にコップ載せた盆を持ってカウンター、飛び越えた。なんてやつ。音もなしで佐伯の後ろを取った。そういえば、涼子、亭主、どつき倒して離婚したんだった。確か、一ヶ月、亭主入院したとか・・・

水野、明かるくはしゃいだふうに。
水野 きゃぁ、陽子じゃない。私、覚えてる。涼子よ。ひさしぶりよね、もう何年になるんだろう
清水 え・・・、私・・・
日向独白 涼子、彼女を抱きしめてはしゃいでいる。そして、すっと彼女を予定していた椅子に座らせ、自分もその横に座った。唖然として突っ立っている佐伯、一人、寂しそうに
水野、少ししんみりとして。
水野 ほら、私の父さんって、転勤多かったでしょう、陽子の学校、半年で転校した後も、五回も学校替わって、それに、私、あの頃、荒んでたから、友達もできなくて。だから、私・・・、陽子だけが友達だった・・・。本当に会いたかった。本当に・・・
清水 ごめんなさい、私・・・。清水恵子と云います。人違いじゃ・・・
水野 え・・・。あ、あっ、あはっ・・・。清水・・・、恵子・・・、さん。ごめんなさい。私、本当にごめんなさい
日向独白 涼子、おおげさなくらい恐縮して立ち上がった。ん・・・、目元に涙・・・、そっと人差し指で拭う。あいつ、自分の演技に酔ってるな
清水、やさしい声で。
清水 会えると・・・、良いですね
日向独白 涼子、目元を潤ませたまま、独特の間を取って、そっとうなづいた。そして佐伯に振り向く
水野 えっと・・・。はは、ごめんなさい。確か・・・、さ・・・、佐伯さんでしたよね。おくればせながら・・・、いらっしゃいませ・・・、なんに・・・、なさいます・・・
佐伯 あの・・・、レモンティーで
水野 レモンティーですね。清水、さんは・・・
清水 私も同じで
日向独白 涼子、こくっとうなづいて・・・。俺、よく考えたら昔から女性不信の気があったけど、これ、涼子の所為だよ、本当に。ん、戻って来た・・・
水野、ささやくように。
水野 十点満点でいくら
日向、同じようにささやいて。
日向 九点
水野 ん・・・、あと一点は
日向 俺の良心の分
水野 なるほど、なら、事実上は満点か。よし、上々
レモンティーの準備をする音。だんだんと、その音が遠くなっていく。
佐伯と清水の会話。
佐伯 ごめんね。つき合わせたりして
清水 いいですよ。バスで帰ったら、もっと遅くなるんだから。だけど、佐伯さんって、以外
佐伯 え・・・
清水 ふふ、だって、佐伯さんって、いつもよれよれのシャツ着て、靴だって、薄汚れてるし、ほら、髪だってぼさぼさ
つっと清水、佐伯の前髪を引っ張る。
佐伯 あ・・・
清水 どっちかって言うと屋台でラーメンすすっているって零囲気なのに、ここ。私、このお店のこと情報誌で紹介されていたの見たことあるんですよ。中世、英国風の喫茶店で恋人達に一押しの店って
佐伯 そ、そうだね。俺もここが好きで。なんか、落ち着いて
清水 そうですよね
日向と水野のささやき声。
日向 この店、そんなに人気あったの
水野 当たり前やろ。あたしの店なんだから
日向 なるほど、それ、妙に説得力ある
水野 妙には余計。だけど・・・。清水さんの方、結構、乗り気と見た。どう、日向ちゃんは
日向 たしかに恋愛専門家の私に言わせますと、彼女、ガード、低いね。うまく行きそうだ
水野 うん。あたしもそう思うけど。ちょっと不安
日向 不安って
水野 ガード、低すぎないかな。正直、佐伯君って日向ちゃん同様、もてるタイプじゃないのに
日向 あの・・・。言ってくれる
水野 ふふ。うちの言い様は昔から。さて、とりあえず反応を見てみるか
場面、佐伯、清水に戻って。
水野 どうぞ、お待たせしました。あ、それから、これ、(声をひそめて)このチーズ・ケーキはサービス
清水 え・・・。でも
水野 気になさらずに。本当に私、嬉しかったから。ね
日向独白 涼子得意のアルカイック・スマイル。ギリシャの娘像にある清楚な笑み、って、涼子、よなよな、鏡向かって練習してるんじゃないやろな。ん・・・
声をひそめて。
水野 さてと、日向ちゃん。作戦、二段階目に入るよ
日向 二段階・・・
水野 そっ、じゃあ、作戦会議しよ。耳かして
日向独白 ・・・涼子、自信たっぷりに笑みを浮かべた・・・。まるで、完全犯罪を思いついた推理作家か、犯人の様。どちらかというと、犯人。やっぱ、俺の女性不信の影、こいつの所為やな

間、音楽が流れて。
佐伯 ね、清水さん・・・。あの、唐突なんだけど・・・
可愛らしく。
清水 え・・・
佐伯 いや、あの・・・。はは、本に載っているだけあって、おいしいね。本当
清水 どうしたの。鼻の頭、汗かいてる
佐伯 え・・・。そっかな。俺、ちょっと・・・。あ、うん。俺、ちょっと、風邪気味で。ごほげほ

唐突に場面変更。
日向 あの・・・、涼子さん
水野 はい
日向 お嬢さん、奈々子ちゃんって云うだっけ。もう、いくつなの
水野 明日が二歳の誕生日。ふふ、一歳の頃は親の欲目プラスでお人形みたいに可愛いいて思っていたけど、喋れるようになってからはオートリバースのテープレコーダ。もう、うるさいだけ
日向、笑いながら。
日向 だけど子供は元気が一番だよ
水野 そうだけどね。でも・・・、いたずらした時なんか、しっかりと叱ってくれる男の人がいたらいいなぁって思う、女親だけじゃあね
日向 ごめん。辛いこと思い出させてしもて
涼子 はは、お気になさらず。あたしも時々、古びた写真でも引っ張りださないと、あれっ、あいつどんな顔してたっけ、て思うくらい。
だけど、とうして死んじゃったんだろう、あいつ・・・。勝手に・・・、交通事故なんかで・・・
日向独白 涼子、そっと俯いて表情を隠した。亭主を一月入院させた人間とは思えないほど、寂しげな演技。尾妙な間をとって、涼子、顔をあげた
涼子 日向さんはまだ結婚しないの。いつだったかな、まだ独身なんだって言ってたよね
日向 う、うん
水野 結婚に興味ないのかな
日向 ないことはないけど・・・、ね、俺、思うんだけど、結婚してなんかいいことあるのかな
日向独白 涼子、一瞬、我が意を得たりとにっと笑みを浮かべた
水野 そうよね。確かに自由に使えるお金も減るし、気苦労も増えるけど・・・。でもなんていうのかな、それと引き換えにしてもいいくらい、嬉しいことや、充実感がある。あたしも上手くは言えないけど、結婚したとき、これから自分の自分自身の人生が始まるって感じた。そして、言葉だけでなく初めて理解をしたの、人は一人では生きていけないってこと、どんなつまらないことでも、二人で生きて、何かを形作ろうって嬉しさ。あたし・・・。結婚には迷ったけど、それでも本当に結婚してよかったと思う、もう、そういう喜びはあたしには戻ってこないけど、それでも・・・、良かったって思える
日向 そっか・・・。ね、それ、俺と・・・
日向、囁くように。
日向 ほ、本当に俺、言うのか
水野も囁くように。
水野 言うの、ここからがいいんだから
日向、少し声を大きく。
日向 俺と、あの・・・。あの、友人と映画を見に行こうって約束していたのが、そいつ、あの、急に行けなくなって・・・、それで、あの・・・。明日、お店休みでしょ、奈々子ちゃんと、三人で、良かったら、映画、見に行きませんか
水野 映画ですか・・・
日向 具合、悪いですか・・・
水野 ごめんなさい、まだ、無理なんです。まだ・・・。ごめんなさい・・・
日向 お亡くなりになった御主人のこと・・・
少し涙声で。
水野 ふふ、おかしいですよね。時々、顔すら忘れている人に
日向 素敵な人だったんですね
水野 そんなことないんです。風采のあがらない、薄汚れた零囲気が躯に染み付いてしまった人で。でも・・・、私がいないとだめな人だったんです。だから、だから・・・
日向 なんだか、そういう涼子さんの顔って、嬉しそうですよ
水野 そうですか。どうしてだろう、あんな奴のこと。本当に先に死ぬような勝手な奴・・・。これが喧嘩別れだったら、忘れることもできたのに・・・
日向 不謹慎だとは思うけど、俺、その人がうらやましい
水野 え・・・
日向 涼子さん
水野 はい・・・
日向 俺、また、・・・来てもいいですか
日向独白 涼子、一瞬、辛そうに俯いた。尾かに握り程めた手が震える。そして、間をとって、ゆっくりと顔をあげた。目元を涙に潤ませて・・・。少女のようなまぶしげな笑みを浮かべた
水野 待って・・・、います・・・
日向独白 やばい、十点満点で二十点渡したくなるような笑み。本当に・・・。惚れてしまう、のは辛い
日向、つぶやくように。
日向 良かった・・・。それじゃあ
水野 ・・・はい・・・

カウベルの音、日向、外に出る。

日向、ささやくように。
日向 状況はどう
同じく、水野、ささやくように。
水野 面白い零囲気になって来た。あとは佐伯ちゃんの思い切りだけ

間。清水、小声で。
清水 水野さん、子供、いるんだ・・・
佐伯 え・・・。あぁ。そう。何度か、見たことがある。小さな女の子。それが、どうかしたの
清水 ううん、子供がいるって零囲気じゃなかったから
佐伯 そうだね
清水 さっき言ってたよね、カウンターにいた人と、あの人。御主人が亡くなっても、今も自分の心の中に愛したあの人がいるんだろうな。私、うまく言えないけど、うらやましいなって思った。私にもそんな人がいてくれたらな
大きな声で。
佐伯 清水さん。俺
清水 え・・・
佐伯 俺と付き合ってください
清水 あ、あの
佐伯 俺、毎日、風呂に入ります。服にももっと気を付けるし、髪型も替える。もちろんそんなことでは意味がないて思うかもしれんけど、俺、精一杯頑張るから
佐伯 俺と付き合って欲しい
清水 御免なさい。私、無理なんです。だから・・・
日向独白 清水さん、かなり複雑な笑みを浮かべた。涼子、少し首を傾げてる、あの笑みが判断しきれないよう
清水、つぶやくように。
清水 一週間前に、五年付き合っていた人と私、別れました
佐伯 ほな、その人のことを
日向独白 清水さん、尾かに首を横に振った
清水 あいつのこと、憎んでいる、そういう意味ではまだ、あいつに縛られているかもしれないけど。でも無理なのは・・・、理由は・・・、私、あいつとの赤ん坊を降ろしてしまったから、あいつが生むな、赤ん坊なんて邪魔くさいだけだって・・・、言うから、言うから・・・、ううん、なんて言ってもあたしはあたしの大切な子供を殺した、あたしが殺したんだから
日向独白 痛ったた、涼子、俺の手を思いっきり掴んで、歯を食いしばっている
佐伯 俺。清水さん、あなたが入社して以来、ずっと好きだった。そして、いまも好きなんだ。俺には清水さんがどれほどの苦しみを抱いているのか、全てはわからない、どれほど苦しんだのか、ホント売りのところはわからない。でも、でも、俺、好きな人が、俺の知らないところで苦しむのは耐えられません、俺には、清水さんの苦しみを拭う力はないけど、せめて、せめて、自己満足て思うだろうけど、俺、清水さんと一緒に苦しませて欲しい
清水 佐伯さん・・・
日向、小声で。
日向 一件落着ってとこか・・・
水野 ううん、まさしくこれからが始まり
日向 ところで、涼子、一つお願いがあるんだけど、いいかな
水野 ん・・・
日向 手、離してくれる。かなりしびれて来た
水野 あ・・・、ごめん

水野 ありがとうこざいます。七百四十円です
佐伯 はい
レジの音。
水野 また、来てくださいね
日向独白 佐伯、少し緊張した面持ちでうなずく
水野 清水さん。また、来てね。待ってるから。そう、今度、来てくれたときには試食してもらおうかな、最近始めた自慢のタルトがあるんだ
清水 楽しみにしてます。それに私も気になるから
水野 え・・・
清水 御免なさい、さっきの男の人との話、聞いてしまって
水野 はは、そう・・・、そうよね
カウベルの音。ドアが開き、二人、出て行く。
客男 あ、あの・・・
水野 へ・・・
水野、つぶやくように。
日向独白 二人連れのお客さんのこと。すっかり、忘れてた・・・
客男 あの、僕達が言うことじゃないとは思うんだけど。考えてみたら、あの、どうでしょうか
水野 考えるって
客男 あの人との再婚を。もちろん、面識のない、僕達がこんなこと言うのは、本当に失礼だと思うんです。でも
客女 ごめんなさい、さきほどのお話、つい、聞いてしまって
客男 思うんです。本当にあの人、あなたを大切に思っているって
客女 私たちも、若すぎることや仕事のことで、お互いの両親から結婚を反対されています。でも、でも・・・、本当に私たち、お互いを必要としているんです
少し間を置いて。水野、落ち着いた口調で。
水野 本当に失礼な人たち。だけど、・・・嬉しいな。なんか、気持ちがやわらかくなるような気がする。でも、ごめんね。まだ・・・、無理。それに恐くてね。彼を好きになることが、そして・・・、今度好きな人を失ったら、私、もう、生きて行けない・・・、から
日向独白 昔、ほんのちょっと唇を噛むだけで、死を決意しているて表現した女優がいたけど、涼子・・・。一瞬、唇を噛んで俯いた。そして、ゆっくり顔をあげる
水野 でも、ありがとう・・・。なんだか・・・、どう言ったらいいのかな、勇気みたいなものが出て来た・・・。(少し涙声で)ありがとう・・・
客男 僕達もこれから、彼女の家に行きます。認めてもらうために
日向独白 涼子、笑みを浮かべたまま、そっとうなずいた
客男 それじゃ
カウベルの音、ドアが開き、閉まる。
水野、小さく溜息。
水野 ばてた・・・
日向 涼子、良心の呵責に苦しんでへん
水野 それは大丈夫。長い間、良心を箪笥に仕舞いこんで、そのままになってるから。だけど、ちょっと・・・。ね、マスター。アップル・ティー、お願い、少し甘目で
日向 いつのまに、俺、マスターになったんだ。俺の時給、高いよ
そう言いつつ、日向、アップル・ティーを作る。
とんと、涼子の座るテーブルにアップル・ティーを置く音。
日向 どうぞ
水野 ありがと
日向、向かいに座る。水野、飲む。
水野 日向ちゃんって、なんでも、それなりにこなしてしまうね。ちょっと、それって、寂しいな
日向 不器用なほうがええの
水野 ふふ、さあね
日向独白 涼子、そっと視線を落とし、小さく吐息をついた。尾かに覗く表情に、疲れた笑みが浮かぶ
水野 なぁ、一つ聞いていいかな
日向 何を
水野 日向ちゃん。本当は結婚したくないって、思ってるでしょう
日向 俺が・・・
水野 うん
日向 そう、まだ・・・、俺が高校生の頃やったかな、漠然とした結婚観を持っていた
水野 好きな人と、本当に思い合うことのできる人と、できるだけ、同じ時間、同じ場所をを共有したい
日向 そう素直に思えた
水野 いまはどうなの
日向 共有したいと思うものが理解ってものに変わった。それだけ
水野 それで
日向 そう。女性と付き合ってみたいなって思うけど、どうしても結婚したいとは思っていない、本心ってやつ
水野 やっぱりね。日向ちゃんは結婚相手が欲しいのじゃなくて、相棒が欲しいんだ
日向 相棒・・・
水野 そっ。結婚するていうのと、人生の相棒を見つけるって言うのは、傍から見たら、たいしてかわらないけど、内実はまったく違う。もちろん、運の良い人間は結婚から、相棒へとお互いを昇華させて、それこそ理解しあうなんて境地に達するのもいるかもしれないけど
日向 相棒か・・・。そうかもしれない。昔、思った。俺と君、それぞれ、別の路を歩いていても、時として、二人の路が束の間、重なるときもあるでしょう。お互い、理解し得ておったら、疑心暗鬼になることもなく、それぞれの路を歩むことができましょうって
水野 ふふ。これなら日向ちゃんとでも結婚しておったほうが楽だったな
日向 ね、涼子はどうなの。再婚とか
水野 話はあるよ、くさるほど。世の中、美人は得、離婚暦も連れ子も容姿で簡単に補える。バカな男が多いもの
日向 なら、結婚の予定はあるのん
水野 なし。ね、結婚して、なんかいいことあったら教えて。全部、あたしが否定してあげるから。事細かく論理的に例証まであげてね
日向 なんか、さっきの話と百八十度違うみたい
水野 いいじゃない。お付き合いしたい、結婚したいって思ってる人のわざわざ邪魔する必要なんかない。あたしは自分の考えを他人に押しつけるんは嫌いだし、もっとも押しつけられるのはもっと嫌やだけど
日向独白 俯いたままの涼子の表情が手に取るようにわかる。考えてみたら涼子との付き合いも二十三年になる。ほんの小さな子供の頃から、佐伯と三人、大抵、一緒に居た。不思議と気が合って。近くの小川で泳いで遊んだことから、空手の道場へ通うから、付き合えと涼子が言いだして、佐伯と二人、びくびくしながらついて行ったこと。もう子供の頃なんて、思い出せなくなったことが多いのに、不思議と涼子とのことだけは、まるで昨日のことのようによみがえる、そしてどうしようもなく、思い出してしまう。涼子の結婚式。どうして涼子は結婚したんだろう、どうして離婚したんだろう
水野、凍えた声で。
水野 知りたいのなら、訊けばいいのに
日向 涼子・・・
水野 あたしは日向ちゃんの思うことなら、なんでもわかる
日向 なら教えて。涼子の結婚のこと、離婚のこと
水野 そっか・・・、日向ちゃん、そんなこと考えておったんか
日向 へ・・・
水野、少し笑みを浮かべて。
水野 あたしでもわかんないことぐらいあるよ。ね、日向ちゃん、晩御飯まだだよね
日向 あ。う、うん
水野 残りものの材料で悪いけど、ピラフ、作ったげるよ
日向 なら、俺。手伝う
水道の音、包丁の音。二人、ピラフを作りながら。
水野 結婚した理由は簡単。親は女の幸せは結婚だぁって攻め立てるし、親戚はくだんない見合い写真を山にして持って来るし。なんだか、結婚しないことがとてつもなく親不孝みたいな零囲気になってしまったんだ。へんだよね、あたしの両親って、娘に結婚を強要させるほど、素敵な夫婦じゃないのにさ
日向 そんなに涼子、責められてたの。そういうの、なんとなくわかるような気するな
水野 あ・・・、やっぱり
日向 え・・・
水野 日向ちゃんにしても佐伯君にしても、あたしの回りの男ってなんて鈍感ばっかりなんだろう。あたしが、あんなにSOS発信してたのに、ぜんぜん、気づかなかったんだ
日向 ここで、だったら、はっきり結婚したくないって俺に言ったらよかったのにって言ったら、涼子、どうする
水野 次の瞬間、日向ちゃん、あたしの足下にうつ伏せになって倒れていると思う。うちに、腕、逆手に捕られて、うめき声も、確実、あげているな。日向ちゃん、口は災いのもとだよ
日向 そのようだね、気をつけるよ。ね、だけど、ごめん。本当に気づかなかった正直、ごめん
水野 そう、率直に謝られるとあたしも対処に困るのですが。実際、熱心に見合いや結婚を勧める親を見ていて、あたし、思ったんだ、あたしは人間じゃなかったんだ、一個の操り人形でしかなかったんだってや
日向 操り人形・・・
水野 理想の生活を託す、理想の夫婦ってやつを自分たちに見せてくれる操り人形のこと。娘はこうあるべき、こうであるはずって幻想の糸に操られていたでく人形。
それであたし、こう考えた。なんだ、あたし、人間じゃないんだ、ただの人形、なら、死ぬことなんて恐くない、だって、あたし、命のない人形なんだもの、ただ、壊れるだけ、がしゃんとお皿割って、それ、ゴミ箱にやってしまうのと同じ、簡単、簡単。って、あたし、あっさりと手首を切った。ただ、手首を横に切ったんだ、あたし、手首は縦に切らないと死にきれないって知らなかったんだ。まぁ、おかげで、今、こうやって、日向ちゃんと喋れるわけではあるんだけどね
日向 操り人形か・・・
水野 あれ、日向ちゃん、頭から糸がのびてるよ。あ、腕からも
日向 見える・・・
水野 ふふ、落ち込んだな。だけど落ち込むだけでは意味がない、自分の手で弦を引き千切らないと意味はない。まっ、さすがに、日向ちゃんも、その絃、後生大事に握ってるほどのマザコンではない。そのへん、ひょっとしたら、君付けできる可能性もある。ふふ、とりあえず、そんになわけで見合いした男と、ずるずると引きずられて結婚したわけ。ね、そこから、お皿二枚、出して
日向 え、ここ
水野 ううん、そこじゃない。もっと右
日向 ここか、ここかい
水野 ああん、もう少し上
日向 どう、ここかい。ここでいいの
水野 そ・・・。そう。ああん、いい、いいわ
日向 くだんないこと言ってないで、カウンターにお皿置くよ
水野 先に素に戻らぬよう。あたしが変みたいじゃない
日向 だけど、涼子も根は明かるいな
水野 人形じゃないもの、生きているからさ。はは

向かい合ってピラフを食べる。

水野 日向ちゃん。おいしい
日向 うん
日向独白 涼子と向かい合ってピラフを食べる。こうやって涼子と食事するの、何年ぶりだろう。そう、三人で川原でバーベキュしたのが、多分、最後
水野 こんなふうに食べるの、三年ぶりだね。あと佐伯君がいたら、昔に帰ったように思える
日向 昔か・・・
水野 うん、昔のこと・・・。楽しかったな、いつも三人で居たんだ、だから、結婚してなんだか寂しかった、あたしだけが死んでしまったような気がしていた
日向 離婚して・・・
水野 そう、すこしは息もできるようになった気がする。くだんない、別れ方で
日向 聞いたことある、涼子の亭主、一ヶ月、入院したて
水野 力、余ってね。そう、見合いした時だ、あたし、その男に言ったんだ。あたしが見合いをしたのは回りから強制されてで、あたしは結婚する気はまったくないんです。そうはっきりとね
日向 それが、その後の亭主
水野 ふふ、そう。あたしはその時点でにべもなく断わったんだけど、回りからの圧力と男に口説かれて、半分、自棄になってね
日向 考えようによっては相手も災難
水野 ふふ、仕方ないよ、わかってて結婚してくれって言うんだから。ただ、あたし、結婚を承諾する前にこう言ったんだ。あたしは名字を変えないって、あたし、夫婦別姓って考えだからさ
日向 なんか涼子らしいな、って気がする
水野 あたしの中では結婚する、一緒に暮らすってことと、姓が同じになるってことが繋がらなかったからさ。それで、もしもあたしに無断で婚因届けを出したら、即離婚する、そういう約束で結婚した
日向 先に離婚の要件を出しておいたわけか。愛の無い結婚の始まりってやつ。じゃあ、離婚した理由って
水野 やつもさ、こう言ったんだ。同感だよ、僕も思うよ、お互いが愛していれば、理解していれば、姓がどうのこうなんてたいした問題じゃないってね
日向 ちょっと、歯が浮きそうだ
水野 ふふ、それで、一年たったくらいかな、あたし宛てに税金支払いの通知が来た。やつの姓にあたしの名前。びっくりして、役所に確認したら、新婚旅行から帰って、二日目に婚因届けが提出されてた
日向 不言実行・・・ってね
水野 そう。それであいつ、開き直ってお前は俺の言うことをはいはいて、聞いていたらいいんだって喚いて、あたしの頬、一発、平手で打った。で、あたし、頭の線がぷちって切れて、右の拳であいつの顎を思いっきり打ちあげて、降ろす肘でその腹を思いっきり打ち込んでやった。あいつ、うめき声をあげて、ばたっ。で、あいつは優雅に一ヶ月の入院生活。一ヶ月も遊んで暮らせるなんて、うらやましい限り
日向 涼子、自分が空手の師範代ってこと、言ってなかったわけだ
水野 あたしはかよわい女性でございますわ。ほほほ・・・
日向 ははは、なるほどな
水野 日向ちゃん、何がおかしいの
日向 おかしいていうより、なんか、嬉しくてね
水野 何が嬉しいのよ
日向 なんかね
水野 へんなの
日向 な、涼子、まじで明日、奈々子ちゃんと遊園地にでも行こうか
水野 遊園地か・・・。もう、長く行ってないなぁ。だけど、ごめんなさい。あたし、あたし、まだ、亡くなった主人に操をたてていたいんです、あの人があたしの心の中にいてくれている限り・・・
日向 そうか・・・。じゃあ、まっ、仕方ないよね
水野 あ、こいつ。すっと引きやがって。なんて、奴。あたしのおくゆかしさが理解できてないな
日向 ね、辞書ないかな。意味の知りたい言葉があるんだけど
水野、くすぐったそうに笑う。
水野 日向ちゃん、本当にいいんだったら、遊園地に連れて行ってくれないかな。奈々子も保育園の友達が家族で遊園地に行って来たの知って、自分も行きたいってうるさいのよ
日向 では、行きましょうか。そう、お弁当は
水野 それはあたしが用意する。しっかりとお金だけ用意してくれていたら、いいから。あ、日向ちゃん、このごろ太り気味やない
日向 え、そうかな
水野 うん、日向ちゃん、ダイエットしたほうがいいよ。明日から、お昼抜いたら、そしたら痩せる
日向 言ってくれるな。明日は、俺、スポンサーだよ。ジェット・コースターが遠のいて行くよ
水野 はは、それは困る。なら、腕によりかけて、作ってあげるから、楽しみにしていて
日向 本当に涼子は・・・。なんか、思うけど、結婚云々に関しては、確かに情けない俺に問題がある、だけど涼子の所為でもあるんじゃないかな。女性不信やとか、色々と
水野 なんだ、日向ちゃん、今頃気がついたのか。本当、日向ちゃんって鈍感やな
日向 なんだかな、まっ・・・、いいけどね。じゃあ、明日
水野 うん、明日
カウ・ベルの音
水野 あれ。佐伯君、どうしたの
佐伯、空元気を出して。
佐伯 いや・・・。清水さん、送っていて、帰りにちょっと覗いてみようかなって、ははっ
日向 佐伯・・・、まじで。まぁ座れよ
佐伯 あぁ
佐伯座る。
水野 佐伯君、一体、何があったの
佐伯 清水さん、送って行って、家の前で別れた。それだけ
水野 なんかおかしいよ、隠してるな。ひょっとして、清水さん、家に送って行ったら、元彼氏が待っていて、で彼が謝って、彼女は佐伯君にご面なさい・・・、そんな運動会のリレー競争みたいなこと
佐伯、一つ、吐息を漏らして。
佐伯 涼子、冴えてるな
日向 で、素直に帰って来たと・・・
佐伯 彼女。あいつの顔見て、あんな幸せそうに笑みを浮かべられたら、俺・・・
水野、溜め息ついて。
水野 すごすごと帰って来るなんて、あきれてものも言えないけど・・・
水野 よし、佐伯君、あらため佐伯ちゃん、明日は奈々子と四人で遊園地いこう。思いっきり遊び惚けるから佐伯ちゃんも軍資金、しっかりと用意するように。ではここ朝8時集合。おやつは五百円以内
佐伯 おい、急に、そんな・・・
水野 佐伯ちゃんの明日の予定は、全部キャンセル。言うこときかないと、あたしの鉄拳が炸裂するよ
日向 佐伯
佐伯 ん・・・
日向 俺等って、つくづく不幸な星の下に生まれついたみたいだな
佐伯 あぁ、俺もそう思う。だけど、なっ
日向 そうだな
日向・佐伯 まっ・・・、いいか
水野、小さく笑う。

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ないふ

ないふ


男 膝がふるえている、座席から立てない・・・
テーマ音楽
単調な列車の音。車内のざわめき。
男 座席は詰まっていて、つり革持つ人も多い、それはいつものこと、だけど、違うのは俺の真向かいの座席だ。吊革の男の向こう、列車が揺れるたびに、向かいに坐る女の姿が見える。
女の口元、異様に赤い唇だけがにっと笑みを浮かべている。そして、問題なのは・・・、透けて後ろの窓が見えること、いや、そうじゃない、首、女の喉に大振りのナイフが突き立っているってことなんだ。
男 誰も気づいていない、あの女が見えないんだ。そうだ、次で降りてしまおう、もうすぐ駅だ、とにかくここから逃げ出だすんだ
列車の連続音がゆっくりとなり、停まる。ドアの開音。
ざわめき。
男 は、早く立つんだ。たくさんの人が降りていく、俺も
降りていく人たち、スリットのように女の姿が浮かぶ。
女と眼があった・・・、女の唇の両端が異様につり上がる、俺を見て笑ったんだ。女の顔が俺に迫ってくる、笑う女の顔が俺の視界一杯になる、押しつぶされてしまう
動けない逃げ出せない。
消えた・・・
どうしたんだ、いない、空いた席が俺の前にあるだけだ。消えてしまった、・・・そうだ、乗客達と一緒に降りていったんだ

女、耳元、かすれた声でささやくように
女 見えているんだろう、あたしが
男、大きく息を吸い込む。
ドアの閉まる音、列車が動き出す。
女 冷たいねぇ、女の子が喉にナイフ突き立ててるんだぜ
男 あ、あっ、あぁ、あの
女 可哀想だなぁとか、思わないかい
男 だっ、だだた・・・
女 そうだよなぁ。他人のことだもんなぁ、関係ないよねぇ
男 すいませんっ、ごめんなさい
女、小さく笑って。
女 ほぉら、やっぱり見えてたんだ
男 えっ・・・
男 俺の目の前にナイフ突きたてた女が浮かび上がる。喉元、ナイフ、指差して・・・
ナイフを抜けと指差す
命じられるままにナイフを掴む。
冷たい、手のひらが張り付きそうだ。体まで凍えてくる。息が苦しい。喉が詰まる。喉のこれは、血の味だ。俺は血を吐こうとしているのか、いや違う、これは・・・、俺は手のひらを通して女の血と一つになっているんだ
男 早く
女、普通の、囁く声で
女 早く
男 力を込めて、抜く
どうして・・・。掴んでいる筈のナイフが掌から溶けだしていく。氷が溶けるように消えてしまった
列車の音。
男 女が何処からか、スカーフを取り出して首にしっかり巻いた。
女、普通の声で、なにげなく。
女 ありがと。不便でさ、やっと普通に喋ることができるよ
男 話が見えない・・・、いや、見えなくていい。知らない、俺は何も知らない、見ていないんだ
女 おいおい、いい大人が引きこもりかい、世話になったからさ、悩み聞いてやるよ、話してみな
男 え、いや、あの、なにも・・・
急に、女、しとやかにしおらしく。
女 そう・・・、そうだよね。あたし、幽霊だもの、恐くてあたり前だよね。ごめんなさい
男 いや、あの、決して、あの、そういうわけじゃなくて、なんというか
女 女にころっとだまされるタイプだね。よく言えば正直。でも免疫がないとなぁ。これからの人生、生きていけないぜ
男、少し笑い出す。女も小さく笑う。
男 なんだか、肩の力が抜けて、ありがとう
女 ありがとうって
男 変ですね、素直にありがとうって言ってしまった
女 あたしの人徳ってやつだな
男 そうかもしれない
男 にっと笑う赤い唇。あたりまえのように俺の横に座った。どうしてだろう、なんだか、落ち着いてしまって、恐さもすっかり消えてしまった
女 あたしが恐いんじゃない、あんたの中にある虚像が恐怖を撒き散らしていた、それだけのことさ。たいしたことじゃない
男 えっ・・・
女 あんたの顔にそう書いてある
男 女はかすかに視線を落とし、口をつぐんだ。俺はどうしてだろう、何かとても哀しくなって、自分が情けなくなって、ハンカチを取り出し、女の唇を拭う。どうして、そうしたのかはわからない、ただ、そうすれば、少しだけでも、ほんの少しだけでも。
女 面白い人だな、あたしが見えるわけだ
男 少し顔を上げて、にっと笑う。陰のある、でもやわらかな笑みだ
女 ん、その定期券は
男 あ、ハンカチ出したときだ・・・
男 定期券拾って、降りたら改札で渡そうとポケットに入れてた
女 貸してみな
男 女は興味深そうに俺から定期券を取り上げる
女 なるほどねぇ。きまぐれ、それとも縁(えにし)とでも言おうか
男 どういうこと
女 つまりはいいもん、拾ったってことさ、あたしに出会えたんだからさ
男 定期券を人差し指と中指の先で挟み込む。
そして、女は自分の顔の前に定期券を
女 次は誰が受け取るんだろうね
男 ささやくように呟いて、そっと定期券に息を吹きかける。さらさらと・・・
男 さらさらと定期券が光の粉になって飛んでいった。飛んで・・・
女 まぁ、こんなとこだ
男 そう言って女が向かいの座席に笑いかけた。向かいの席、小さな子供が身を乗り出して女を見つめている
女 子供はさ、たまにあたしの姿を見る、あたしは、ちょっと嬉しくなる
男 やわらかく笑みを浮かべて、小さく手を振っている。子供も笑って手を振り返す。
女 ナイフがないってのはいいよねぇ
男 そういえば、ナイフ、どうして喉に
女 秘密さ
男 え
女、かわいく笑って。
女 女の子には誰にも話せない秘密の一つや二つ、あるものなのよ、ごめんなさい
男 楽しんでますね
女 ナイフを消してもらって、なんだかさ、心の底に澱のようにして溜まっていたはずの恨みや妬み、すっかり消えてしまったんだ
男 それじゃ、これから
女 これから・・・、さてねぇ、どうしようもないな、あたしはひとりぼっちだ。牢獄に閉じ込められているんだよ
男 牢獄ってここに・・・
女 普通の人たちはあたしの声も聞こえない、姿も見えない、つまりはあたしの存在はないわけだよ。目の前にいても、大声張り上げていてもさ。牢獄で、一人テレビ見ているようなもんだ。でもさ、あんたやあの子のように、気づいてくれる人たちもいる、ちょっとあたしは優しくなる
男 いつのまにか、向かいに座っていたはずの子供が女の前にたたずんでいた。目に一杯涙をためている。女がそっと手を伸ばし、子供の頭をなでている。
女 子供は苦手なんだけどな、本当は
男 笑みを浮かべるその表情がとてもはかなげで、つらくて仕方がない
列車がゆっくりと止まり、ドアが開く。本来なら、車内アナウンスがあるはずだが、邪魔なので割愛。
女 それじゃあね。ありがとう
男 ゆっくりと立ち上がり、女が列車を出る。俺も
ドアの閉まる音、列車の動き出す音。
女 あんたもここで降りるのか
男 遠ざかる列車の窓、女は笑顔を子供に向け、そっと手を振る
男 俺と一緒にいませんか。これからも
女 そういうのもありかもしれないな。でもね、あたし、あんたと会って少しわかったことがある。
男 わかったこと・・・
女 ほんの少し、自分が暖かくなった、そんな気がしてね
男 暖かく
女 体の冷たさ、希薄さはかわらない。でも、なんだかさ、ちょっと暖かいんだよ
女 ね、あたしに手を伸ばしてみな
男 言われるままに女に手を差し出す。気弱げに笑って女も手を差し出す。
そっと指を絡める。微かに感じる指先、冷たい、でも、なんだか、静かでおだやかだ
女 次に会うときは、次に会うときにはさ
男 ええ、次に会うときは
女 いつか、どこかでね
男 女がやわらかに笑みを浮かべる。俺もなんだか、あの子供のように泣きそうになりながら、いっぱいの笑顔を浮かべる。
ゆっくりと女の姿は薄れ、後ろの風景と重なり、そして消えていった。
いつか・・・
最後の男の台詞、途中から音楽。

終わり

 

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霞は晴れて

「霞は晴れて」
物部俊之

現実。病院の一室、機械の作動音。
母 「はい。これが・・・」
医者 「ええ、グラフのここのところを見てください。これは三日間の彼女の脳波ですが、この大きな波が夢を見ている状態です。ほら、ずっと続いているでしょう」
母 「これって・・・、ずっと。まさか」
医者 「普通は夢を見ている時間、見ていない時間が交互に繰り返されるのですが、彼女の場合、常時、夢を見ています。良い状態ではありませんね、肉体的にも精神的にもかなり衰弱しています」
母、叫ぶように。
母 「か、霞、霞。起きなさい、霞ー」
頬を叩く音。
霞二 「あ、痛てて、叩かないでよ、母さん。心配なのはわかるけど、もっと自分の娘を信用しろっていうの。もう、あのおおぼけ霞、何処、行ったんだろ。さんざん、駆けずりまわさせやがって。あぁ、もう、私、一人だけじゃ夢から目覚められないよ。本当に・・・、私・・・、夢から覚めること・・・。とっ、とにかく。もう一人の私、見つけだして、絶対、現実に帰ってやる」
霞二 「ん・・・。立て看板。城下町入り口・・・。もう。今度は霞の奴」
門番 「こら、何者だ。手形を見せろ」
霞二 「なによ、あんた」
門番 「なんだと。・・・おおっ、これは姫様。これは失礼いたしました、しかし、いったい」
霞二 「ほぉ・・・。お忍び、お忍び。だから、私のこと、誰にも言わないように」
門番 「ははっ。御意にございまする」
霞二 「あいつ、今度はお姫様をやってるのか。まっ、前のよりかはましだな。でも、お姫様ってことは・・・。うーん、あの向こうのお城。よし」

魔術師 「もうお一人の霞様がこの城下町にお入りになられた様子にございます」
霞一 「そう。あいつの行動力なら、そろそろ、ここにもやって来そうね」
魔術師 「私の入手致しました情報によりますと、かの霞様は現実へ戻ろうとなされているご様子」
霞一 「うん、それって問題じゃないの。じゃ、あんな奴は抹殺。あ、だけど、もう一人の私、いなくなったら、私もひょっとして消えてしまったりして。うーん、そうだ、ここに引き連れて、幽閉してしまおう。私って悪役」
霞二 「てゃーっ。男の後頭、蹴とばした」
魔術師 「うおぉー」
霞二、荒い息で。
霞二 「やっと・・・。お初にお目に掛かります、霞様。ご清祥の砌、何よりにございます」
霞一 「あら、ひねくれ霞さん。ありがと、私の魔術師を足蹴にしてくれて」
霞二 「何よ、ひねくれ霞なんて。おおぼけ霞さんには言われたかないわ」
霞一 「おおぼけ・・・。情けない、もう一人の私がこんな品のない人間だなんて」
霞二 「ふん、うるさいわね。さ、霞。現実に帰るよ」
霞一 「何言ってるの、ここ、現実だよ」
霞二 「あん。何処の現実に王子様が竜にタロットで恋を占ってもらってるのよ」
霞一 「いいじゃない。私、タロット占い好きだもん」
霞二 「そうそう、好きだもんね。ついでにその王子様から、あんたへの伝言。僕を捨てないでって。私、こういう奴、身震いするほど嫌いなのに」
霞一 「はは、王子様、元気にしているようだね。白馬に乗った王子様とのラブ・シーン、結構楽しかった」
霞二 「そのあとはあんた、盗賊の首領になったでしょう、私、散々兵隊に追いかけ廻されたんだから」
霞一 「なるほど、じゃ、次は似せ魔道士だね」
霞二 「竜を呼び出すよって、お金取ってとんずらした・・・。私、ここでも散々金返せと追いかけ廻されました」
霞一 「それは、それはご苦労さま」
魔術師 「これは、これは、もう一人の霞様、いきなりでびっくり・・・」
霞一と二、魔術師の言葉を遮って。
霞一と二 「うるさい、静かにして。これは私達の問題なんだから」
魔術師、気圧されて。
魔術師 「は、はぁ・・・」
霞一 「ね、自由に世界を創ることができるんだよ、あんたも好きなように創ればいいのに」
霞二 「あんたねー。私は現実に帰りたいのよ」
霞一 「どうして。好きなように世界、創れるんだよ」
霞二 「私は嫌なの。そういうの。ね、あんた、神様にでもなったつもり」
霞一 「そうだ、霞。二人で神様になろう、世界を私たちで創ろう」
霞二 「そういうのをね、昔から誇大妄想っていうの、知ってる」
霞一 「知っているよ、それくらい。そしてもう一つ知っている。わかるかな、私が実際に世界を創りだすだけの力を持っているっていうこと。ね、霞、思い通りの世界を創ることができるんだよ。夢に描いて来たこと、すべてを実現できるのよ」
霞二 「夢という現実でね。本当の現実では、私たち、病院のベッドに寝ているんだよ」
霞一 「それこそ夢だよ、ね、荘子の蝶の話、知ってるよね。自分は実在しているのか」
霞二 「それともただの夢の住人なのか」
霞一 「私にとってはこの世界こそ、現実。病院のベッドなんて、ただの夢」
霞二 「霞。そんなの、ただの逃げでしかないよ」
霞二、静かに、諭すように。
霞二 「わかるよ、霞。私とあんたは二人で一人。あんたの思い、痛いほど。わかる。私も思うよ、現実なんてちょっとも面白くない、悲しみや苦しみばっかり」
霞一 「そうだよ、ね、霞は本当の現実って言うけど、本当に現実で生きているって言える。息しているだけじゃ生きていることにならないんだよ」
霞二 「わかっているよ、家では勉強しなさい、塾へ行きなさい。そして、学校に行けばいじめで一杯、先生達は君、そんなのいじめのうちに入らないよって、涼しい顔」
霞一 「私はもう嫌なの、そんな世界が。ね、生きるっていうのは本当は楽しくて、ずっと素敵なものじゃないの」
霞二 「元は一人の霞、私もそう思うよ。でも」
霞一 「確かにベッドで寝ている私、衰弱死でもしたら、私もあんたも、何もかもが消えてしまうでしょうね。でも、あんたの云う現実で齢取って死ぬまでの時間と、ほんの数日かもしれない、でも楽しく精一杯生きていく時間とどっちが本当に生きていると思う」
霞二 「それは・・・」
霞一 「私は現実に生きたいの、私の創った、精一杯生きていけるこの現実にね」
霞二 「私、あんたに言い返す言葉、持ってない。でも、でも、悔しいのよ。逃げるのが嫌なの。ね、霞、夢を夢の中で創らずに、現実を、嫌な現実だけど、その現実の中に夢を創っていこうよ。嫌なこと、辛いこと、一杯ある、なら現実の中でそれを一つ一つ乗り越えて行こう。今のままじゃ逃げているだけだよ」
霞一 「・・・わかってるよ、それくらいのこと。頭の出来は同じなんだから・・・」
霞一、呟くように。
霞一「聞こえてるのよ、私にも。母さんの呼ぶ声が」
霞一、叫ぶ。
霞一 「魔術師、いるか」
魔術師、呟きから始まって。
魔術師 「だから嫌なんだ、最近の娘ときたら。昔はもっと、清純で大和なでしこのような・・・。え・・・、ははっ、控えてございます」
霞一 「何、ぶつぶつ言っているのよ。私、現実に帰ります。夢はこれにて終わり」
魔術師 「それは無理にございます。この夢は貴女方の創った夢ではなく、私の創った悪夢にございますから」
霞一 「なに、どういうこと」
魔術師 「やっと悪夢らしくなってきた夢にございます。もっと育てて、賞味させていただきとうございます」
霞一 「いったい、何を言っているのよ」
霞二 「悪夢を食べる。まさか、獏」
魔術師 「はっ、その通り私は悪夢を食する獏にございます。今までは悪夢を探し、旅してまいりましたが、考えてみますに、悪夢を創り、育てていくほうが、探す手間も省けます。それで今回、このような夢を演出させていただきました、それでは」
魔術師、微かに笑うように。
魔術師 「素敵な悪夢をご堪能くださいませ、二人の姫様」
霞一と二 「消えた・・・」
霞一 「誰か、誰かいないか」
霞二 「窓から、外を眺めてみる。町を行き交う人、人形のように止まったまま。あ、鳥、宙に浮いたまま停止している」
霞一 「じゃ、私たち、夢に閉じ込められたってこと」
霞二 「そのようね。いったい、どうしたら・・・。ん、なんだか、寒くない」
霞一 「そういえば急に寒くなって来た」
二人近づいて。
霞二 「大丈夫だよ、霞、私が抱いててあげるから」
霞一 「あ・・・、霞」
霞二 「ね・・・。霞はわかっているよね、私の気持ち」
霞一 「え・・・。あ、あ、う、うん」
霞二 「じゃ、目をつぶって」
霞一 「目を・・・」
霞二 「そう。安心しなさいな。私達、二人で一人の霞じゃない」
霞一 「う、うん。じゃ、目をつぶる」
霞二 「キスしてあげる」
亀裂、響くような金属音。
霞一、微かなうめき。漏れる吐息。
霞一 「か、霞・・・。どうして・・・」
霞二 「私、自分のこと愛しているもの。だから、霞のこと、好き。ね、霞は私のこと、嫌い・・・」
霞一 「そ、そんなことない・・・。でも、急に・・・、だから」
霞二 「私、二人っきりだなと感じたとき、自分の気持ちに気づいたんだ。本当に霞のこと、大切に思っていたんだって。そして、愛している」
霞一 「私、私・・・」
霞二 「この世界、私達二人っきりなんだよ、誰の目もない、私達だけ。正直になろう」
霞一 「う、うん。私も霞、愛している」
霞二 「じゃ、お礼言わなきゃ。ね、一緒に言おう、いい」
霞一 「う、うん」
霞一と二、声をあわせて大きく。
霞一と二 「獏さん。幸せな幸せな夢をありがとう」
男のうめき声、ガラスの割れる音。
霞二 「よおし、やった。あいつ、悪夢じゃなくなってお腹こわしたんだ」
霞一 「え・・・、じゃ、霞、今の・・・。お芝居」
霞二 「霞。まさか・・・、本当に」
霞一 「まっ、まさか。ちゃんとわかってたよ。本当、本当なんだから。あれ、霞、雨降って来た」
霞二 「本当、晴れているのに」
霞一 「ね、この雨、青い色してる、空の色みたい・・・」
病院の一室、医療機械の作動音。
霞二 「何とか現実に帰れたみたいだね」
霞一 「そうだね、あ、念のために頬をつねってみよ」
霞一と二 「痛っ」
霞一と二、少し笑って。
霞一 「ね・・・」
霞二 「ん・・・、何」
霞一 「ごめん、本当にごめんなさい」
霞二 「え・・・」
霞一 「今更、何いってんのよって思うだろうけど、反省・・・、してる」
霞二 「いいよ、もう、それに私も」
霞一 「え・・・」
霞二 「ちょっとうらやましかったんだ」
霞一 「私が・・・」
霞二、少し笑って。それから急にびっくりしたように。
霞二 「・・・あ、ここ、現実だよね」
霞一 「うん」
霞二 「だったら、なんで私たち二人いるのよ」
霞一 「きゃっは、嬉し。私達、いつも一緒」
霞二 「もう、しがみつかないでよ」
霞一 「よし、こうなったら仕方ない」
霞二 「え。なんかいい方法・・・」
霞一 「一卵性美人姉妹のアイドル誕生。私達、一緒に頂点を目指すのよ」
霞二 「なに気楽なこと言ってのよ」
霞一 「はは、ごめん。でも、いったい・・・」
霞二 「まさか、まだ夢の中ってこと」
霞一 「ても、頬、痛かった」
遠くから、一人の足音が伝わって来る。
霞一 「あ、足音」
霞二 「ね、私の考えてることわかる」
霞一 「もちろん」
霞二 「本当にわかっているんでしょうね。もし、奴だったら、今度は波瀾万丈の冒険活劇が始まるんだよ。いいね」
霞一 「うん。なんか面白くなってきた」
霞二 「まっ、ね。・・・せいのぉで」
病室のドアが開く、それと同時に。霞一と二、二人で声を合わせて、元気良く。そして、少し攻撃的に。
霞一と二 「ただいま、お母さん」

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かがみ

オーディオ・ドラマ用シナリオ
かがみ
物部俊之

登場人物


男1
女1
子1
子2
女の子

 


女、一人呟くように。
女 夕暮れ最中(さなか)の公園は子供達のはしゃぐ気配だけが騒がしい
・・・なんだか、にぎやかでいいね・・・


微かに風、葉擦れの音。
女 夕暮れ時、茜色に何もかもが染まりゆくひととき、あたし、高台の、遠く海の見える公園のベンチに一人座っている
懐かしい公園、小さなブランコ、空の色が何もかもを紅く染めて、あたしの手のひらまで紅く染めて、あぁ、吐く息の白さまですっかり紅くなっている
だからかな、遠く、海の向こう、消えていく小さな船の灯りの白さが妙に現実的なんだ。
あの船、何処まで行くんだろう

女、ふっと呟くように。
女 別に理由なんかないんだ、本当に
回想のように。
規則正しく、ブランコのきしむ音。
女 ブランコ・・・、あたしが揺らしているんだ・・・。乗っている子供は誰だ。・・・そうだ、この小さな背中はあたしの子供だ
男一 何が虚しいってんだ、甘えるな。それとも、俺との結婚が失敗だったとでもいいたいのか
女、優しく子供に語りかけるように。
女 ブランコは楽しいかい、身体が揺れると素敵だろう
女一 あなたには愛情というものがないのよ。自分の子供が可愛くないの、厭なの、嫌いなの。何とか言いなさいよ
女、優しく、静かに。
女 母さんが子供の頃、いつも、父さんがブランコ、揺らしてくれてたんだよ
男一 働きたいだと、俺の稼ぎが不満なのか。お前なんかに何が出来るというんだ
女、優しく、静かに。
女 ブランコに乗ってると不思議だろう、なんだか、空を歩いているような気がするんだ
女一 あなたが子供を生むということが間違いだったのよ。あなたはね、母親失格なの、人間失格なのよ
女、優しく、静かに。
女 そうか、そうだったんだ。あたしは母親失格なんだ、だからあたしは母親じゃない、じゃあ、君もいないんだよ、何処にも。君は間違えて生まれて来たんだ、だから、そっと君の首を締めて、君を帰してあげるよ
女、呻くように。
女 嫌だっ
女、荒い息。

いくつもの重なった子供達の笑い声が風に乗ってやってくるような音。
老人(男)登場、ただし、ふっとそこに現れたような、始めからもう居たのだというような感じで。
男 隣り、いい、かね・・・
女、息を整えて。
女 いつの間にだろう、おじいさんが一人、あたしの隣りに座っている。リュックに風呂敷包み、片手には大きな紙袋二つ。俺は全財産持ち歩いてるって人だ
男 あんたも会いに来たのかい、奴らにさ
女 奴らって・・・
男 そうか・・・。お前さんは迷い込んで来た口か。まあ、これも何かの縁(えにし)というやつだろうな
女 迷い込むって、あたし・・・
女 話が見えてこない。でも、おじいさん、一人納得したとでもいうように笑みを浮かべる、そしてゆっくりと背もたれに身体を預けて、目をつぶった
男、一人呟くように。
男 わしのような年寄りになると、なんだかいいもんなんだよ。子供らのはしゃぐ姿を見ているだけでな
女 独り言、それともあたしにそう言ったのか。なんだか、幸せそうな顔、・・・してる
男 わしの顔に何か、ついているのかい
女 あっ、ああ。いいえ
男 そうか。ん、もしも、おまえさん。わしに一目惚れしたのなら、悪いが諦めてくれ。わしは独りが気楽でいいんだ
女、少しくすぐったそうに笑って。
女 あたしも・・・、そう、です・・・
女 茜色に染まるおじいさんの寝顔、なんだか屈託のない子供のようにやわらかで静かだ


男、起きたような、起きていないような。
男 おぉ・・・、来たな
鈴のような音。微かに子供達のざわめき、笑い声。波のようにうねるようにやってくる。基本的に、あまり子供達は存在感のないような感じで。ざわめきや笑いの中から言葉が浮かびだしていくように。きらめく漣のように。
子1 何処まで行くんだい
子2 8年と7ヵ月先
子2 君はどうなんだ
子1 16年も先なんだ。大変だよ
子2 そっか、大変だよね。まっ、楽しんできなよ
子1 うん、そうだね
子2 あれ、あの子は・・・
子1 ううん、いいんだって

女 子供達が幾人も幾人も鏡・・・、鏡を持って公園にやってくる。なんなんだ、これは・・・
男、寝入りそうな声で。
男 朽ちた洗面台からはずしてきた大きな板鏡、母親の目をぬすんで持ちだした赤い小さな手鏡、割れた鏡のかけら。あれは・・・、少しひびの入った車の室内鏡(しつないかがみ)、おやじの車を悪さしたんだな
女 まるで、おじいさん、思い出すような口振りで言い当てていく
無数に鳴る鈴の音と子供達の微かなざわめき。
女 あの子供達は
男 ん・・・、あぁ、・・・だな
男、独り言のように。
男 身体が浮かんでいくようだ、うむ、いい気分だ
女、静かに。
女 鈴の音(ね)と子供達のざわめきがいくつもいくつも重なって、これはきらきら輝く海の漣(さざなみ)だ

女、戸惑いながら呟くように。
女 海の・・・、面(おもて)だ。茜色の空をそのまま映す海の上、ベンチに座ったままのあたしとおじいさんが浮かんでいる
男、静かに。
男 いくのさ、ああしてな
女 おじいさん・・・
女 あ、子供達が茜色の海の上、手に持った鏡を紅く燃える空に向けた
男 歳を取るとな、新しいことが覚えられなくなる。だがな、古い記憶が妙に頭の中に浮かんで来たりするものなんだ。お前さんはまだ思い出せないだろうな
女 思い出す・・・
男 鏡から茜色の光が水のようにこぼれていくだろう
女 あぁ、光が子供達を包んでいく
男、感情を抑えるように。
男 大人達の醜い言葉が子供達の体も心も縛り付けていく。無理だとか、できるはずがない、当たり前じゃないか、そんなつまらない言葉が子供達を殺して行くんだ。
女 おじいさん・・・、泣いているの
男 わしもあんたもそうだ、大人なんて愚かなもんなんだよ、悔いてもどうしようもないのだがな
女 背中をまるめて息をするのをこらえている。おじいさんの背中、これはあたしの父親の背中と同じだ、あたしの、あたしの父さんの懐かしい背中だ。
女、呟くように、自分自身に語りかけるように。
女 ・・・お父さんがブランコに乗ってよ、あたしが押してあげるからさ。・・・父さん・・・
男、呟くように。
男 だがな、そんな言葉を知らない、覚える前の子供達には不可能なんてものはないんだ、ほら、子供が一人、二人、次々と消えて行くだろう
女 あの子たち、何処へ・・・
男、平静を取り戻そうとしながら。
男 ああ、そうか、お前さん、そうだったな・・・。
奴らは光になって鏡の裏側から自分達の未来に行くのさ。ほんの些細な、だが、奴等にとっては切なる思いを込めた悪戯という奴を仕掛けるためにな
女 悪戯・・・
男 奴等は自分達の未来が気がかりで仕方がないらしい
女 自分達の未来・・・
男 どんな人生を過ごすのか、どんな思いで暮らさねばならないか。ふむ
女 そうだ・・・、思い出した、子供の頃から消えない手のひらの傷、これは、これは・・・

ブランコのきしむ音。
女 あれは・・・
女 子供だ、子供が一人、ブランコに乗っている、あの背中は・・・、あたしの、あたしの子供だ。
あぁ、あたしの手が・・・、手だけが、遠く身体から離れていく、そして、あの子の首を、首を・・・
女、静かに。
女 やめて、お願い。もうやめて・・・


女 君は・・・
女 鏡のかけらを持った女の子が一人、あたしの前で微笑んでいた。
女、呼びかけるように。
女 おじいさん・・・
女 どうして・・・。いつの間にか、おじいさんの姿が消えていた
女 女の子、にっと笑みを浮かべるとあたしの横に座る
女 あたしだ、この子。子供の頃のあたしだ。子供のあたし、安心しきってあたしの腕に身体を預けている
女 そっと頭をなでてみる、なんだろう、自分の頭をなでているみたいだ
女 あ、あたしに笑みを浮かべて、空を指さした
女 空・・・。透き通る透明な藤色の空だ
女 そうだよね、なんだか、あたし達の身体も透明になっていきそうだ
女 子供のあたし、ほんの一瞬、淋しそうな笑顔をあたしに向けた
女 ・・・ごめん、ごめんね
女 あたしを見上げたまま、悪戯げにちょっと舌を出す。そしてあたしに鏡のかけらを差しだした。これ・・・、そうか、そうだったよね。公園で父さん、危ないって、よく怒ってたよね
女、静かに
女 はは、そうだったよね

女 あたしと子供のあたし、二人、鏡の両端を持つ
鏡の割れる、澄んだ鋭い音。
女 二つに割れた鏡、子供のあたし、そっと笑みを浮かべ、鏡を向かい合わせる。手のひらの切れた二人の血の色か、それともさっきまでの茜色の光なのか、二つの鏡を紅い光が架け橋のようにして繋げていく
女の子の声。できれば女と同じ声を幼くしてくれると嬉しい。
女の子 約束だよ。・・・ね、あたし

女 月明かり照らす公園のベンチ、あたし、独りで座っている。
そして、あたしの前には笑顔を浮かべた子供が一人。あたしの・・・、子供だ
あたし、ゆっくりとベンチから立ち上がって、手をさしのべる。あたしの傷ついた手が紅く染まった鏡のかけら半分を握っていた
そしてこの子の手にはもう半分の鏡のかけらがある
女、やわらかく。
女 え・・・、うん、いいよ
あたし、半分になった鏡のかけらを渡して、思いっきり、思いっきり抱きしめる
心配かけて・・・、ごめんね

 

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海の卵

『海の卵』

 

涼子 あたしがあたしに嘘をつく。こんなことはたいして難しいことじゃない。この胸に右手を突き刺し、心臓をほんのひとかけ、摘み出せばいい。
そしてその蠢く心臓のかけらにこう呟くんだ。
・・・ここはあたしの、部屋だ・・・。あたしは、朝、目を覚まして会社に行こうと、している・・・
あぶくの音。

涼子 何気なく川を眺めたままのあたしがいる。どうしたんだろう、あたし・・・

喫茶店のような感じで、瀟洒な音楽。
涼子 あたし・・・。なんだか、最近・・・ううん、別にどうってことないんだけど
男 なんだかな。どうしたんだよ、涼子。そんな難しい顔してさ
涼子 ね、あんたはあたしの幼なじみで、そしてあたし達、今は付き合っているんだよね
男 どうかしたの。ひょっとして健忘症ってやつ
涼子 違うよ、ちょっと確認したかっただけ。なんだか、あたし、変なんだ・・・

涼子 何がどうしたんだと心配するふうもなく、この男、珈琲を啜る。多分、何も考えていないのだろう。この付き合いも、もうおしまいだな
滴が一つ落ちる音。
涼子 まただ・・・、どうしても頭の中からこの音が消えない・・・

喫茶店の音楽が消えて。
涼子 あたしは生きている。これは間違いない・・・、と思う、多分・・・。なんて言うんだろう、なんだか変なんだ。 あたし、本当に生きているのかなって思うんだ。例えば何かを掴む。何でもいい、さっき自動販売機で買った暖かい缶珈琲でもいい。そっと片手で握ってみる。そしてゆっくりと両手で握ってみる。握っているんだけど、握っているんだけど、なんだか、頼りないんだ。見た目よりも軽い、ううん、そんなんじゃない。なんだか柔らかい、違う、そうじゃない。なんだか、持っているはずの缶珈琲が、ほら、ふっと消えてしまいそうで、たまらなく不安なんだ。頼りないんだ。触れるもの全てが本当にあるって気がしないんだ、ほら、何気なくふっと掴んでみたらすっと指先が通り抜けてしまうんじゃないか、そう思えて仕方がないんだ。

仕事が終わって、ロッカー室で女性が着替えている。ロッカーの開く音、着替える音。
女1 ね、最近、彼女、おかしいと思わない
女2 彼女って
女1 ほら、涼子よ。経理課の
女2 そうかなぁ。別にいつもどおりじゃない、目立たない普通の
女1、含み笑い。
女2 なに笑っているのよ
女1 実はね、あたし、見たんだ
女2 ん、何を見たの
女1 実は・・・、ん・・・、やっぱりやめておこう
女2 え、なになに。言いなさいよ。あ、ひょっとして涼子の不倫とか
女1 ううん、そんなんじゃない、だいたい、彼女がそんなのするわけないじゃない。私、ん・・・、まっいいか。昨日、映画を観に行った帰り、喫茶店で涼子を見かけたんだけど
女2 うん
女1 ほんの一瞬だったけど、はっきりと見えたんだ。涼子が、びしょぬれで座っているのを。雨も降っていないのにさ。髪から、滴がぽたぽた、ぽたぽたって。まるで水死体のように
女2 それって幽霊噺じゃない。そんなひどい話、涼子が聞いたら気を悪くするよ。あんたはそういう話が本当に好きなんだから
女2 あれ・・・
女1 え・・・
女2 水・・・、ううん、海の匂いだ・・・。潮風の匂いがする・・・。何処からだろう・・・
滴が一つ落ちる音
涼子、呟くように。
涼子 別にどうってこと・・・、ない。絶対にない。

涼子 若い女が河原の土手に一人座っている。あまりいい格好じゃないな。隣りにあんな男でもいてくれたら、なんだかいい零囲気なんだけど。『どう、寒くないかい。ううん貴方がいてくれるもの』ってね。でも、一人きりじゃどうしようもない。ケープ羽織って小さくうずくまるだけだ

電話で。涼子、深刻な感じで。
涼子 母さん、あたし・・・
母親 どうしたの、涼子。何かあったの
涼子 ううん、別に何もない。ちょっと母さんの声、聴きたくなったんだ
母親 どうしたのよ、何があったの
涼子 ちょっと・・・、懐かしかったから、それだけ。あたし、随分、実家に帰ってないものね。ね、父さんや香織、元気にして いるかな
母親 みんな元気にしているわよ。父さんは相変わらず元気なだけが取り柄の仕事人間だし、香織は、来年、大学受験で頑張って いるし。ね、あなたこそ、一人暮らしで 大丈夫。ちゃんと暖かくしてる。送った冬布団、使ってる
涼子 ・・・うん。暖かくしてる・・・。ね、母さん。あたし、あたし・・・
母親 どうしたの、いいから、話してみなさい
涼子 あたし、帰ってもいいかな。また、一緒に暮してもいいかな。一人暮らしがしたいってあたし、家を出たけど、父さん、怒 るの振り切って家を出たけど、ごめんなさい。寂しくて・・・、辛くて・・・、 もう、一人じゃいられない
母親 ・・・涼子・・・
涼子 ねぇ、母さん、お願い。お父さんにもあたし、あたし、謝るから
母親 ・・・ごめんね、涼子。いま、香織の大学受験で家族も大変なのよ、あの子も浪人で来年が三度目の正直だし。だから、で きるだけあの子の環境を変えたくないの。だから、涼子・・・。香織の受験が終わるまで、あと、もう何ヶ月かじゃない、それまで、ね、お願い、涼子。待っててくれない。・・・あ、あら、お客様かな、じゃ、涼子、元気でね。暖かくしているのよ
電話の切れる音。ツーツーと音だけが残る。
涼子 母さん、お願い・・・
滴が一つ落ちる音。
涼子 母さん。あたしの頭の中が水で一杯になってしまうよう
風の音。缶珈琲の栓を抜く音。
涼子 少しずつあたしから人が遠のいていく。恋人、家族、友人、戸惑いながらも、あたし、何処かでそれは仕方のないことだと 知っている。泣いても喚いても仕方がないことだと受け入れている。もう限界だよとあたしの何処かが呟いているのが聞こえるんだ。
あたし、諦めているのか。そうだ、何に諦めているのかもわからないくせに、あたし、諦めている。

涼子 暖かい・・・
涼子 午後の日差し、夕方にはまだ少し早い。風の涼しさと裏腹に日差しだけが夏を思い出したように少し暖かくなった。ん、向 こうの土手、子供たちが遊んでいる。鬼ごっこかな・・・。追いかける女の子をうまく躱しながら、みんな逃げていく。要領の悪い女の子だ、後で男の子が手を振っているのに、それに気づかない
涼子 そうだ、振り返って。ほら・・・、遅いから逃げられた。なんだか、日差しの中で子供たちの遊ぶ姿、対岸が遠くて声が聞こえない。その所為か、まるで、あたしとは違う世界の出来事のようだ
あたかも、涼子の横にずっといたかのように自然に。
浮浪者 これも一つの風景だ
涼子 浮浪者・・・、橋の下に団ボールで小屋を作って生活している・・・
浮浪者 もうすぐ冬だ。冬の寒さはなかなかにこたえる
涼子 そんなに寒いの
浮浪者 あぁ、風は凌げる。団ボールの殻でな
涼子 団ボールの殻・・・
浮浪者 ああ。だが、水の冷たさだけは違う。ほんの少しの隙間からでも、そいつはひたひたと忍び込んでくる
涼子 そう・・・
浮浪者 お前は知っているか。雨が降り出す前のほんのひととき、遠く海の匂いが辺りに漂うことがある。雨雲が蓄えた海の匂いが辺りに漂いだすのだ
浮浪者 全ての生命は海から生まれた、多分その所為だろう。雨降る前の海の匂いが無性に懐かしい。消え去っていたはずの記憶がふっと脳裏をかすめるのだ
少しずつ、浮浪者の声が小さく なっていく。
浮浪者 人は遠い海の匂いを恐れる。思い出すのが恐くて仕方がないのだ。偽りが剥がれることが恐ろしいのだ
涼子 偽り・・・
涼子 ゆっくりと、滲むように男の姿が薄れていく、その身に橋の欄干を映しだし、空の色と重なり消えていく
涼子 あたしもそう思うよ。人はそんなに強くない
涼子 視線を対岸に戻せば小さな子供たちの遊ぶ姿。泣きべそかいている小さなあたしがいる、ほら、転んだ。早く、立ちなさいな。あたし達の時間はもうそんなに長くはなさそうだ
涼子 子供たちの姿がゆっくりと薄れていく。水彩絵の具を水で溶くように、色が滲み、そして消えていく。どうなんだろう、これは子供たちが消えたのか。それともあたしが子供たちの前から消えたのか。
涼子 思い切って土手に仰向けに寝そべってみる。なんて青い空だ。視界全てが青一色に染まる。午後の日差しがほのかに柔らかい。あぁ、このまま眠っていようか、いつまでも。それとも、ほんの微かでもいい、人の生きる証の音を探して歩こうか

涼子 いつのまにか、人の気配がすべて消えてしまった。視線を巡らす必要もない。あたしはこの世界に唯ひとりきりだ

涼子 ・・・海の・・・、匂いだ。何だろう、懐かしくて仕方のない、海の匂いがする。雨が降ろうとするのだろうか、それともここは・・・、海の中なのか・・・
涼子 思い出してはいけないことが蘇ってくる。あたしがあたしについた嘘が色褪せていく。
涼子 ああ、そうだ。やっと思い出したよ。
あたしは深い海の中、ゆらゆらと漂っているんだ。あたしは記憶という殻に自分を閉じ込めた卵のような存在だ。殻の内側に映る人や風景を眺めながら、あたしは海の中を漂っているのだ。その内、殻は破れ、あたしはあたしが死んで海の底に漂っているのだという事実と向かい合わなければならない。
涼子 青い空を見上げれば、あたしの頭の上だけに空が波打ちだした。ゆらゆらとざわめくさざなみを水の中から眺めている、きらきらと光が乱反射するんだ。
もうすぐあたしが、あたし自身が終わる。さほど、もう長くはこの空を見つづけることはできないだろう。
涼子 でもそれでもいいと思う。見上げた海がこんなに透き通って綺麗なのだから。
なんて・・・、静かなんだ
あぶくの浮き上がる音。

 

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流紋物語 オーディオドラマ用シナリオ 2013年修正版

登場人物

少女 海に漂流している幽霊
女  高校生 主人公
父  女の父親
女一 女の友人
女二 探検隊の曾孫・老人の孫娘
老人
魚屋



少女、囁くように。
少女 「こんにちは、こんにちは。あたしの声が聞こえますか。あたしは海にいます、空はすっかり青色です。空と海の境目がわからないくらい、とっても、とっても、青です」
音楽。
女。呟くように、そして、少しづつ早口になる。
女独 「どうしたんだろう、私。声が聞こえるんだ。いつからだろう、ううん、わからない、昨日からだったかもしれないし、ずっと前からだったかもしれない。小さな女の子の声が、まるで耳元にラジオでもあるみたいに聞こえてくるんだ」
女独 「母さん、いなくなって父子家庭。珍しく、晩御飯食べるの、父さんと一緒で、その時も、女の子の声が聞こえたから、父さん、何か子供の声、聞こえないって聞いたら、何も聞こえないよって、父さんの答え。あれ、テレビかなってごまかした」
女独 「学校の友達には絶対、そんなこと、聞けない、集団生活は厳しいんだ。変な奴って思われてしまうよ」
フェードアウト

夕方。自宅、台所にて。
父 「どうした。泣きそうな顔しているぞ」
女 「え・・・」
女 「あ、ううん。なんでもないよ」
女独 「いつ、学校から帰って来たんだろう。薄暗い部屋、明かりをつけるのも忘れていた」
女独 「父さん、明かりをつけてくれた。いつもの台所兼、居間だ、明るくなって、冷蔵庫やテレビ、水屋、見慣れた部屋に帰って来た気分だ。なんだか、ほっとした」
冷蔵庫を開ける音。お茶を出し、湯飲みに注ぐ音。
父 「飲みなさい、こんな夏の暑い晩に締め切っていたら熱中症になってしまうぞ」
女 「ありがと」

女独 「父さん、テーブルの向かいに座った」
父 「いや。なんていうかな。もしもだ、いじめにあっているなら、父さんに言いなさい。困ったことがあるなら相談しなさい。父さん、たいして頭も良くない からな、勉強は教えてやれないが、それでも、親だからな、俺はあいつの分もしっかりお前を、守って育てなければならんと思っている」
女 「大丈夫だよ。学校、楽しいよ」
父 「そうか」
女独 「父さん、安心したように笑ってくれた」

女 「ご飯の用意をするよ」
父 「今日の当番は父さんだろう」
女 「いいよ。なんか、父さん、夏ばての疲れ果てた顔しているからさ、大サービスだ、作ってあげるよ」
父 「父さんはいつもこんな顔だ」
女、笑う。
冷蔵庫の扉を開く音。
父、少し離れたところから。
父 「豆腐があったろう。食欲ないからな、冷奴にしてくれるか」
女、楽しそうに。
女 「ほら。そんなんじゃ、だめだよ。豚肉やキムチも入れて麻婆豆腐を作るんだからね、がつがつ食って明日もしっかり仕事をしてください。子育てにはたくさんお金が必要なのですよ。お父さんのすねが細くなったら、私が、がしがし、かじれないからさ」

女、風呂上がり自室にて、扇風機に向かって。
女 「あぁー」
女独 「御風呂上がりの扇風機、このきらめく瞬間、幸せだ」
回想。
女、やわらかく囁くように。
女 「お母さん。お母さんがいなくなるの嫌だよぉ。お願い、ずっと一緒にいて。お母さん、大好きだよ、いなくなるなんてやだ。お母さんは私のお母さんだよ、誰のでもない、私のお母さんだもの。ね、そうでしょう、そうって言ってよ、ねぇ、お母さん」

女1 「ね。どうしたの」
女 「ん、何が」
女1 「長かった髪も切ったし、言葉遣いもなんだか・・・」
女 「あぁ、これから強く生きて行かないとさ。捨て猫は野良で頑張っていくしかない。これからは物分かりのいい優しい顔はしていられないんだ」
回想、終わり。

女独 「くだんないこと、思い出した。夏になると思い出す。とにかく、私と父さんは、母さんに捨てられた猫だ。立派な野良猫として生きていかなきゃ。恵子 だって、あかねだって、父親と同じ空気を吸っていると思うだけで、吐き気がするとかいうけれど、私と父さんは捨てられたもの同士、同盟を組んで、頑張って 生きていかなきゃならないんだ」
扇風機に向かって、パイロット気分で。
女 「あー。感度良好、感度良好。雲の上は見事な星空です。遥か彼方の星の瞬きがスポットライトのように機体を照らしだします。我が白い機体は幻灯機のよ うに何万光年もの彼方、光が伝える、その星の生活を映しだすのです。あー、あー。どうやら、これは地球という星のようですな。何やら二足歩行の蠢くもの が、その地球という星を食い荒らしております」

少女、囁くように。
少女 「こんばんは、こんばんは。あたしの声が聞こえますか。大きな月が波を白く照らしだしています」
女、叫ぶ。
女 「うわぁ、お父さん。お父さん」
階段を駆け上がる音。強くドアを叩く音。
父、ドアの向こうから。
父 「どうした、開けるぞ」
ドアの開く音。
女、泣きながら。
女 「お父さん、声が、女の子の声が聞こえるんだ・・・」

階下にて。
女独 「どう、説明したものか」
女独 「一階の台所兼居間、私は椅子に座り、テーブルには麦茶。父さんは動物園の熊さん状態、所在無げにうろうろ、あ、冷蔵庫を開けた」
冷蔵庫を開ける音。
女独 「牛乳と珈琲、私のお父様はアルコールがだめな人なのだ」
父 「あ、あのな」
慌てたように、
女 「は、はいっ」
女独 「うわぁ、声がひっくり返っちゃった」
父 「大人はなにもかもがわかっているわけじゃない。齢食って、わかっている振りをするのがうまくなっただけだ」
女独 「父さんもテーブルについて、私の向かい、珈琲牛乳を一口、飲んだ」
父 「いったい、お前に何が起きているのか、教えてくれないか」
女、決意したように。
女 「女の子の声が耳元で聞こえるんだ、いつもじゃないけど。ほんとに隣りにいて喋っているように聞こえるんだ」
女独 「お父さん、少し考え込むように俯いて、そして顔を上げた」
父 「どんなことを喋っているんだ」
女 「海の様子ばかり、さっきは、月明かりが海の波を白く照らしているって言ってた」
父 「それはお前に呼びかけているのか」
女 「わからないけど、聞こえる人を探しているみたいに思う。お父さん、私、おかしくなったのかな、それとも夏の幽霊」
女独 「お父さん、少し俯いて考え込んでしまった。そりゃそうだよ、こんな変な話、誰もまともに受け入れられないよ」
父 「その声はどんな声だ。どんな感じがする、嫌な感じがするのか」
女 「いつもびっくりはするけど・・・、嫌な感じはしない」
父 「なら、返事をしてみなさい」
女、息を飲んで。
女 「え」
父 「背中丸めてやり過ごそうというより、向き合ってみる方が良い。もし、本当に幽霊で、お前が海に引きずり込まれそうになるなら、父さん、両手でぎゅっとお前の手を握って引き留めてやるよ」
女独 「お父さん。あぁ、お父様はとっても浪漫的なお人なのでした。でも、確かにそうだ・・・、その声にびっくりはしたけど、怖かったり、嫌だったりしたわけじゃないんだ。だから、だから。返事、してもいいのかもしれない」


女独 「あれから一回目、声が聞こえた時、喉が緊張して喋れなかった。いつ、声が聞こえるかわからないから、慌ててしまうんだ。二回目はお手洗いに行って て、声だけだから見えるはずないんだけど、でも、なんか、ごめん、待って、待って、って思っている内に消えてしまった。あぁ、声に出して待ってって言えば 良かったんだ。あぁ、何やってんだ、私は」
女独 「私、どうしたんだろう。返事をするって、決めたら、声が聞こえるのを、なんだか待っている」
少女の声、囁くように。
少女 「こんにちは、こんにちわ。あたしのが声が聞こえますか。向こうに黒い雲、こっちに来ないといいなぁと思っています」
女 「こんにちは。そうですね、雨が降らないといいですね」
少女 「ごめんなさい」
女独 「ふっと、何か繋がっていたのが途切れたような気がした」
女、叫ぶように。
女 「待って。謝らなくていいよ。もっと、もっと、お喋りしよう」
少女、戸惑うように、申し訳なさそうに。
少女 「あの・・・、初めまして」
女、最初、元気に。
女 「初めまして。君の声、以前から聞こえていたよ、返事しなくてごめんなさい」
少女、ほっとしたように。
少女 「ううん、ありがと。返事してくれて」
女 「君の名前は」
少女 「名前・・・、ごめんなさい。思い出せない。ずっと、誰ともお喋りしなかったから」
女 「君はずっと一人なの」
少女 「うん」
女 「よし。なら、私が君の名前をつけてあげるよ。ん・・・、海、灯台。そうだ、あかり、あかりって名前、どうかな」
少女 「あかり・・・。ありがとう、お姉ちゃん」
女独 「お姉ちゃん、お姉ちゃんだ。うひゃぁ、なんてことだ、妹ができてしまった」


楽しそうな音楽。
女 「あかりちゃん、そちらの風はいかがですか」
少女 「微風(そよかぜ)です、日差しもとっても柔らかです。こんな日は珍しいです」
女 「昨日の晩は大変だったものね」
少女 「うん、真っ暗だし、凄い波で。ごめんなさい、泣いてしまって」
女 「何言ってんだよ、あかりちゃん。お姉ちゃんこそ、頑張れってしか言えなくて、ごめんね」
少女 「ありがとう、お姉ちゃん。とっても嬉しかった」
女、嬉しそうに笑う。
少女 「ごめんなさい、昨日、あまり眠れなかったから、ちょっと眠い」
女 「うん、わかったよ。それじゃ、また、あとでね」
少女 「ありがとう、お姉ちゃん」
女 「どういたしまして」

女独 「通信が切れた、あかりちゃん、眠ったみたいだ」
女、焦るように。
女独 「現状、日曜日のお昼前。私は台所のテーブル、椅子に座ってあかりちゃんとお喋りしていた。そして、テーブルの向かい側には、仕事お休みのお父さんって、自営業だから、お客さん宅へ行く以外は大抵、家に居るのだ。なんだか、お父さん、分厚い本を読んでいる」
父、一人呟くように。
父 「大切な娘が、一人で会話している、それも、大声で楽しそうに。本来なら、大変だと親はおろおろ、慌てふためくものだ。うちの娘がおかしくなったってね」
女独 「父さん、本から視線を離さずに呟いた」
女 「あ、あの。ほんとだよ。本当にあかりちゃんはいるんだ、ここじゃない、とても遠い海にいて。どうしてか、わからないけど、お喋りができるんだ」
父 「学校から電話があったよ。一週間も学校に来られていませんけどって。男親はだめだな、夏休み、夏期講習ってあるんだ」
女独 「だ、だって。勉強中にあかりちゃんの声が聞こえたら、返事したいし。でも、授業中、大声出したら迷惑かかるし」
父 「迷惑がかかる、それは嘘だな。変に思われるのが怖いんだろう。こいつ、変になったって思われるのが嫌なんだろう」
女 「え・・・」
女独 「父さん、顔を上げて、いたずらっぽくにっと笑った」
父 「学校さぼっていること、父さんに怒られると思ったか。怒りはしないよ。あかりちゃんと喋っている時間の方が大事なんだろう。なんにでも優先順位はあるさ。でも、嘘はだめだ、どんな小さな、些細な嘘もだめだ」
女 「ごめんなさい」
父 「いいよ、わかればいい。それで、あかりちゃんとは仲良くなったようだね」
女 「とっても、いい子だよ。お喋りをしていると、私も海にいるような気がするんだ。二人、海に座って、真っ青な海を見ているような気がして、とっても楽しいんだ
父 「で、あかりちゃんも楽しそうなのか」
女、自信を持って。
女 「うん、とっても楽しくて、幸せだと思う」
父、少し間を置いて。
父 「あかりちゃんにはお前しかいないんだろう。相手してあげなさい。お前が家事の出来ない分、父さんが晩御飯とか作るからさ」
女 「お父さんは変な人だ」
父 「父さん、昔からこんな奴だぞ。あいつが嫌気さしてしまうほどにさ」
女 「普通のお父さんなら、絶対に娘を病院に連れて行くよ」
父 「なら、普通に病院へ連れて行くか、それとも、何かに憑りつかれたんだと、電話帳で悪魔払いや祈祷師さんを探すか。うちの娘、変なんです、悪霊に取り付かれたんですって涙流すかな」
女 「やだ」
父 「普通じゃない父さんでよかったな」
父、少し笑う。
父 「この本は大正時代、とある砂漠へと遺跡調査に向かった探検隊の記録だ」
女 「その本が何なの」
父 「古老の言葉が記してあった。学生時代読んだのを思い出してね」
父、ゆっくりと語り出す。
父 「探検隊の記録」
女独 「お父さん、本を閉じて机に置いた」
父 「この地は昔、海に取り囲まれていた、果てのない大海に浮かぶ小さな島々だった。交通には数人乗りの船が使われていたと云う。今の砂漠からはすぐには 信じられない話だ。しかし、発掘する中で、石に刻まれた舟や魚、漁をしているとしか思えない様子を描いた壁画の一部が大量に発掘された。地球環境の変化が いかに人知を超えたものかを偲ばれる。さて、前述の古老より、理解に苦しむ話を聴かされた。逸話のようなものかと問うたが、いや、これは、ごく日常の意志 伝達手段であったという。これを別記として書き添える。別記・・・、人々は意思の伝達に言葉を使うが、それは遠く離れた者への伝達手段としても利用されて いた。海に向かって語りかける。その声は海を伝わり、違う島の者へと、意思を伝えることができた」
女、叫ぶ。
女 「お父さん、それって」
父 「ちょっと、興味深い話だろう」
女 「お父さん、その続きはどうなっているの」
父 「そこまでだよ、書いてあるのは。著者の理解できない話だったんだろう。次のページは違う話になっている」
女 「そんなぁ・・・。それじゃあ、何にもわからないよ」
男が嬉しそうに笑う。
男 「あー、困った、困った。この頃の子供はテレビの影響だな、自分で論理を積み重ねるということができないんだなぁ」
女 「それはお父さんのステレオタイプ的発想です。子供に対する偏見だな」
男、嬉しそうに。
男 「子供に意見されるのは楽しい。身長だけでなく、ちょっとは、成長したんだなぁって思うよ、頭の中もね」
女独 「海に向かって語りかける、あかりちゃんもそうなのだろうか。青い空の下、陸地が何も見えない、水平線しか見えない海、小さな女の子が俯いて海に語りかけている。なんて、孤独なんだ。なんて、なんて・・・、一人きりなんだ。一人は嫌だっ」
男、呟くように。
男 「あかりちゃんにとって、お前は気持ちを共有してくれるたった一人の友達、いや、たった一つの存在なのかもしれないな。間違いなく、お前が思う以上に、これは重く厳しいことだ。さて、声の聞こえない一人親は、おろおろするばかりだよ」
女、呟くように、声を押し殺すように。
女独 「父さんの顔、笑顔なのに、少し泣いている気がする。お父さん、私はお父さんが思う以上に力持ちだよ。どんな重い物だって持ちつづけるよ。私は母さんじゃないからさ」
父 「うっかりしていたな。昼ご飯を作るよ。そうだ、素麺、もらったのがあったな。お昼、素麺でもいいかな」
女 「冷蔵庫に、かしわの胸肉があったよ、蒸して、細く切って、素麺と一緒に食べよう。胡瓜の細く切ったのや、海苔だけじゃ力が出ないもの」


女独 「私のあかりちゃん救出作戦が始まった。聞き出せたこと。あかりちゃんの回りは海で、全て水平線、陸地が見えないこと。そして、どうして、海にいるのかが思い出せないこと」
女独 「いま、私にできることは何だ。何ができるだろう。そうだ、もっと、あかりちゃんとの繋がりが強くなれば、あかりちゃんが思い出せないこと、私に見えてくるかもしれない。そのためには、もっと音の刺激をあかりちゃんに送ろう」
商店街の雑踏、魚屋の掛け声が響く。
女独 「近くの商店街にやってきた。あまり人の多いところって好きじゃないけど、賑やかでいろんな声が響いている方がいい」
女 「あかりちゃん、いま、お姉ちゃん、買い物しているんだ、晩御飯の用意。たくさんの人達が大声で騒いでいるの、聞こえるかな」
少女 「ごめんなさい、お姉ちゃんの声だけ、聞こえます」
女 「そっか。それじゃあ、よしっ」
女 「おじさん、その生きのいいアジ。おまけして」
女独 「生まれて始めての値引き交渉だ、足が震えた」
魚屋 「しゃぁない、別嬪さんに頼まれたらいやと言えないな。よし、端数切ってやるよ」
女 「うわぁ、ありがと。おじさま」
魚屋 「おじさまかぁ、いいなぁ。魚のあら、これも持っていけ」
女 「うわぁ、ありがとう。嬉しい」
魚の受け渡しと支払い。
魚屋 「ほいよ」
女 「ありがと」
女独 「うひゃぁ、退却。人ごみ掻き分けて走った。(荒い息の音)どきどきする。内弁慶ってお父さんにからかわれているし、自分でも自覚しているのに。あんな、大声で喋ってしまった」
女 「あかりちゃん、お姉ちゃんの声の他に何か聞こえたかな」
少女 「・・・持っていけって、聞こえた気がする」
女 「やった、魚屋さん、そう言ったよ。よし、今度は八百屋さん行くよ」
少女 「うん、お姉ちゃん、とっても楽しい」
女 「あかりちゃんが楽しいって言ってくれれば、お姉ちゃんは勇気百倍だ。行くぞっ」
女、元気に言う。
女 「こんにちは。こんにちは」
女 「こんにちは。そのトマト、いくらですか」
女 「こんにちは。夏祭ももうすぐですね」
女 「こんにちは。いっぱいの人ですね」
女 「こんにちは。一番安いお肉でいいです」
女 「こんにちは。そのお豆さんください」
女 「こんにちは。こんにちは」
女 「こんにちは。おじさん」
女 「こんにちは。お姉さん」

女、大きく息を吐く。
女独 「生まれて十七年、今日一日で三年分くらいは喋った気分だ。だけど、喋るのって案外楽しい。色んな人がいて、色んなことを考えている。あぁ、この人はこういう喋り方をするんだ、あの人は顔をちょっと右向けて喋る、きっと、左右で視力が違うんだ」
神社の鐘が近くで鳴る。
少女 「鐘の音」
女 「商店街を越えたとこにある神社の境内。あかりちゃん、鐘の音、はっきり聞こえたかな」
少女 「うん。聞こえたよ」
女 「同じ音を聞いているんだよ、いま」
女 「遠くで風鈴の鳴る音が聞こえる。人の声が混ざりあって聞こえてくる」
少女 「とっても柔らかい音です。いろんな音が重なって、とっても気持ちが良いです」

老人 「ぎょうさんの買い物やねぇ。おや、小さな神さんも一緒かいな。よぉ、似たはるなぁ」
女独 「お参り帰りのお爺さん。座ってへたばっている私に笑いかけた。小さな神様って・・・」
老人の孫 「お爺さん、探しましたよ。目を離すと、すぐに何処か行くんだから。お嬢さん、ごめんなさいね。あら、可愛いお嬢さんたちね、また、会えそうな気がするわ。それじゃあね」
女 「え、あ、あの。そ、それって」
女独 「女の人、お爺さんの手を引いて歩いて行く。お嬢さんたち、小さな神様、小さな神様って、あかりちゃんのことだ」

間、帰宅。どたばたと廊下を走る音。
女 「お父さん、お父さん。お父さん」
父、腕立て伏せをしながら。
父 「お帰り」
女 「どうしたの。腕立て伏せなんて」
父 「ちょっと待ってくれ。27、28、29、30」
女 「お父さん、大きく深呼吸をすると、床に胡座をかいた」
父 「腹筋、腕立て伏せ、三十回だ。若い頃は百回くらいできたんだけどな」
女 「いきなり、どうしたの」
父 「筋肉鍛えてる。筋肉ってのは精神力だけではどうにもならないからな」
父 「ん。すごい荷物だな。降ろしたらどうだ」
女 「え。あぁ、うん」
荷物、降ろして。
父 「で。何があったんだ」
女 「そうだ、お父さん」
女、声を寄せるように。
女 「大進歩だ、革命だよ。あかりちゃん、色んな声が聞こえるようになったよ」
父 「それは、つまり、お前の声以外も聞くことができるようになったということか」
女 「うん。これで」
父 「これで、なんだ」
女、思い切ったように。
女 「私、あかりちゃん救出計画を立てているんだ。あかりちゃんを救いだす」
父 「お前なら、そう考えるだろうなと思ったよ。聴覚が済んで、それじゃ、次は、視覚、見えるようになるってことかな。で、その買い物は」
女 「商店街へ行ってきた。お店で、大声で喋りながら買い物してきたんだ」
父 「お前がか。内弁慶で、外では無口なお嬢様やっているんだろう」
女、大きく息を吐いて。
女 「可愛い妹のためだ、頑張った。それで、あかりちゃん、色んな声や音が聞こえるようになったんだからね」
父 「えらい、えらい。誉めてやるよ」
女 「えへへ。どんどん、あかりちゃんに近づいて、手を伸ばせば届くくらいにするんだ」
父 「大仕事だ。悔いのないようにしなさい。で、買い物袋の上、それ、アイスクリームだろう。冷凍庫に入れて置いてくれ」
女 「忘れてた」
立ち上がり、走る。冷蔵庫を開ける音。


台所の流しで並んで。
水を流す音。
女独 「お父さんは、社会人としてはだめだけど、私にとってはとっても良いお父さんだ。父さんにそう言うと、どうだめなんだと悩みそうだから言わない。だ から、夫としては最低かもしれない。何かの本で読んだ、娘は父親と似た男と結婚しがちだとか。そうならないよう、注意しなければ」
父 「考えごとか。手が止まっているぞ」
女 「ごめん。結婚のこと考えていた」
とんとんと包丁で野菜を切る音。
女独 「買ってきたもの、とにかく、冷蔵庫に押し込んで、野菜炒めを作ることになった。父さんは隣りで鯵の開きを作っている、三枚に降ろして、塩をして、 明朝から干すのだ。たいていの料理はできるようになったけど、魚と蛸と烏賊を捌くのは勘弁してくれ。三十路になったら頑張る」
女 「ん、父さん、手が止まっているよ」
父 「あ、あのな」
女 「どうしたの」
父 「父さんはかなり理解のある方だ。まだ結婚は早いとか言わないようにするし、相手の男を一発殴らせろみたいなことも言わないから。どんな、奴かだけ言ってくれ」
女 「え・・・。あぁ、違う違う。具体的な話じゃないよ。私は誰とも付き合っていないし、これからもね、父さんがお爺さんになってもすねをかじるつもりでいるから、どうぞ、よろしく」
父、少し吐息を漏らして。
父 「まっ、なんだ。父さん、かっこ悪いな。かなり焦った」
女 「先を自在に読んで、準備し過ぎるお父さんより、おろおろしているお父さんの方が面白いよ」
父 「負うた子に教えられ、だな」
女独 「お父さんは、多分、ずっと青年で、大人に、何処か、なりきれていないのだ。だから、あの人は疲れてしまった。そんなとき、新しい恋ど出会ってし まったのだ、家族を捨てても悔いがないくらいの恋に出会ったのだ。私は君が今も大切だから、君が幸せになることを選びたい、それが父さんの言葉だった。父 さんは青年過ぎるんだ」


女独 「鯵の三枚に卸したのは、明日の朝まで、冷蔵庫でお休み。テーブルにはベーコン入りの野菜炒めの大皿と、お味噌汁の鍋」
女 「いただきます」
父 「いただきます」
女 「お父さん。野菜炒め、しっかりベーコンも食べてよ。ここしばらく、暑いからって、あっさりしたのばかり食べているでしょ」
父 「そういえば、そうだな。でも、この野菜炒めはオイスターソースが入っていて、コクがあって美味しい。食べ過ぎてしまいそうだよ。なんだか、お前も料理が上手くなったな」
女 「なんだよ、しんみりして。さっきの、まだ、引きずっているでしょう」
父 「いや、父さんはお前が幸せになることが、一番嬉しいことだから」
女 「ほら、さっきの、って言うだけで、結婚のことに繋げるんだからな。男親はしょうがないなぁ」
父、笑う。
父 「あんまり、良い格好ばかりしていると、何もかも無くしてしまうな」
女 「結婚しないでくれ、もしくは婿養子をとってくれ。父さんは二階でひっそり暮らすからと、泣いて頼むこと」
父 「はは。紙に書いて貼っておくよ。忘れないようにね」
女、くすぐったそうに笑う。
父 「しかし、これは、ちょっと出しづらくなったな」
女 「ん、何が」
父 「携帯電話を買ってきた」
女 「ええっ、見せて、見せて」
紙袋、がさごそとさぐる音。
女 「おぉっ。色違いが二つ、白と黒。黒もーらい」
父 「使い方は説明書を読んでくれ」
女 「こういうのは、説明書なんか読まなくても、うん、なんとかなる、もんだよ。ほら、この電話の番号が出てきた、うん、他の電話番号もある」
父 「お店の人に登録してもらった」
女 「家の番号と、これは、あの人の番号だ。父さん、理解ある父親を装うとしたね」
父 「ごめん、その通りだ」
女 「異母姉弟、じゃなくて、異父姉弟。会ったことないけど、もう、弟二人まで居て、仲良く四人で暮らしているって聞いたよ、お喋りの恭子叔母さんから。 叔母さんは聞いてもいないことまで喋り続けるんだからなぁ。お前はなんて可哀想なのって、叔母さんの可哀想空気で窒息しそうになったんだからね」
父 「とても申し訳ない」
女 「あの人の番号は削除しておきます。お父さん、あの人の幸せを邪魔してはなりません」
父 「頼りになります」
女、笑う。
女 「これで急なことがあっても、すぐにお父様に相談できるよ。ありがと」
父 「父さんが仕事に出ている時でも、かまわない。必要なら電話をしてくれ」
女 「そうする。あかりちゃん、救出の時、お父さんがいてくれる方が心強いし。早く帰ってこーいって呼ぶよ」
女独 「お父さん、ちょっと笑みを浮かべて、それから野菜炒めを食べる。そうだ、あかりちゃんは私の横、ううん、お父さんの横の方が、私からは正面になっ ていいかな。三人で、こうやってご飯を食べたらもっと楽しいだろうな。それに、この携帯でいっぱい写真を撮ろう。いろんなところへ行こう。一緒にお買い物 したり、旅行も良いな。あ、でも、海はだめだ。山、山なら、山ガールとか言ったっけ。そういうのいいなぁ。そうだ、キャンプもいいなぁ。もう、とっても大 切にするぞ。なんてったってお姉ちゃんなんだからさ」
父、呆れたように。
父 「どうしたんだ。なんだか、にやけて気持ち悪いぞ」
女、嬉しそうに。
女 「なんだよなぁ、自分の娘に気持ち悪いなんてさ」
父 「えらくご機嫌だな。偉そうなことばかり言う我娘だけれど、わりと単純なんだなと、見抜かせていただきました」
女 「単純じゃなくて、素直なんだよ」
女、笑う。
父 「まっ、飯時に難しい顔して食うよりも、にやけた顔して食うほうが幸せだ。
女 「にやけたじゃなくて、微笑んでいると表現してください」
女、少し笑う。
女 「なんだか、今年の夏は楽しいことばかりだ」
父 「いいんじゃないか。来年は受験だからな、今のうちに羽を伸ばして置いてください」
女 「大学か・・・。いまいち、大学へ行く意味が見出せないな」
男 「意味って、たくさん勉強しに行く。それだけのことだろう」
女 「お父さんはキャンパスライフって言葉に一番遠い存在だな。学生の本分は勉強って、お父さんはたすきをしているような人だ」
父 「学ぶということは楽しいことだよ、学び、理解することが、唯一、自分を変える力となる」
女 「そういう、お父さんの青いところ、理解しているよ」
父 「高校生で、頭の中、おばさんにはならないでくれよ」
女 「歳相応にってとこだね。はぁ、やれやれと・・・」
女、急に。
女 「そうだ。お父さん。小さな子供に本を読んであげるとしたら、どんな本が良いかな」
父 「急になんだ」
女 「寝る前、あかりちゃんに本を読んであげる約束をしたんだ。どんな本が良いと思う」
父 「そうだな、父さん的には灰谷健次郎。少し古くて斎藤隆介辺りか。外国文学なら、ミヒャエル・エンデやサン・テクジュペリがお薦めか。」
女 「なら、サン・テクジュペリの星の王子様にしよう。父さんの本棚にあったね」
父 「古いのを読む方が良い、現代語訳もあるけど、味がない」
女 「旧仮名遣いは読みづらいよ」
父 「ゆっくりと、言葉の響きを大切に読めば良いさ。言葉は意味を伝えるだけじゃない、気持ちを伝えるものだ。響きは気持ちや願いをしっかり伝えてくれるのさ」
女 「父さんの文学青年なところと、久しぶりに遭遇してしまった」
父、笑う。
父 「大目に見てくれ。そうだ、本で思い出したけれど、前に話した探検隊、その隊長の曾孫に当たる人に連絡をとったよ。その人が全ての資料を相続したらしい。許可は得たからさ。仕事の都合で、何日か先になるけれど、時間を見つけて話を聴いてくるよ」
女 「おおっ、久しぶりに父さんを見直したよ」
父 「久しぶりに見直してくれて、ありがとう」
父、笑う。

探検隊のひ孫宅にて。
女二 「これが曽祖父が残した日記やメモ、その他の収集品です」
父 「大きなダンボール箱が山となってますね」
女二 「大丈夫です。資料の内容、どの箱にメモがあるかなどは全て諳んじております。具体的にどういったことをお知りになりたいのかをお申しいただければ、ご案内できるかと思います」
父 「電話のように、遠く離れた人と会話をするという古老の話がありましたね。それに関することをできるだけ、詳しく知りたいのです」
女二 「それは流紋のことです」
父 「流紋・・・」
女二 「流れる紋様と書いて、流紋。曽祖父が後に、その古老の云う遠隔通信を、そのように名づけたのです。これは、資料をご覧いただきながら、ご説明いたしましょう」
ダンボール箱を移動させる、箱を開ける、中に入った資料を引き出す。
女二 「こちらをどうぞ」
父 「ありがとうございます」

女二 「古老の言う内容、我は理解しがたし。ただし、文明が進み、後世の者、これを難なく理解しえるやも知れず、ここに、それを書き記すなり」
父 「一字一句、メモの通りの言葉ですね」
女、少し柔らかい言葉で。
女二 「ありがとうございます。詳しくはお読みいただくと致しまして、簡単に解説させていただきます」
父 「お願いします」
女性二 「砂漠の民に残された海の話。その地は元々、砂漠にあらず、大海に浮かぶ島々であったとのこと。それぞれの島には、独立した部族があり、争うこと もなく、平和に暮らしていた。そして、この島の人たちには独特の通信手段があった。遠浅の海岸、足首辺りまで海に入り、足元の水面に向かって呼びかける」
女性二 「相手の名前を呼び、そして、おおい、おおいと水面に呼びかける。上手く相手に声が届く時、水面に模様が現われると云う」
父 「それで流紋ですか。どんな模様が現われるのでしょう」
女二 「具体的な形は曾祖父のメモにはありません。ただ、人それぞれに個別の模様があり、その模様で相手を確認できたのだとあります」
父 「これだけの資料を記憶されている貴方の考えを参考にしたく、お尋ねしたいのですが、よろしいでしょうか」
女性二 「どうぞ」
父 「その流紋が実際に使われていたと仮定した上で、もしも、最初に名前を言わずに呼びかけたとすれば、どうなると思われますか。誰にもその声は届かないと、お考えになるのでしょうか」
女二 「仮定の上に成り立つ議論は空虚であるとした上で、申し上げますと、私が最初にこのメモを読みました時、これはラジオに似ていると思いました」
父 「ラジオ、つまり広範に広がる信号を共振にて引きだすということですね」
女二 「この空間には無数の電磁波がそれぞれの波長で存在します。その中から、必要とする周波数を共振にて取り出し、音声信号として増幅する機械がラジオ です。海に向かって呼びかけるのも声という振動が伝搬し、たまたま、共振する人がいれば、その声が届いたと、称しても良いのではと思います」
父 「しかし、ラジオにしましても、また、テレビもそうですが、大きな出力で電波を発することで世界に届きます。人の声では到底、広範な領域に、その声を届かせることはできないでしょう」
女二 「どんなに小さな信号でも、増幅することができれば、つまり、信号を受け取る側が共振することができれば可能でしょう。それに、もう一つ。貴方は海に向かって強く語りかけたことがありますか」
父 「いいえ、考えたこともありませんでした」
女二、ほんの少し、笑みを浮かべたように。
女二 「難しい科学の本によりますと、空気中を電磁波が伝播する本当のところの仕組みは、まだ、判然としないとのこと。ならば、水に向かって語りかけるの も一興。以前、祖父は子供の私にこんな話をしてくれました。昔、蔵の横に大きな水瓶があった。親父は水瓶に水をいっぱいに張り、おおい、おおいと声をかけ ては、親しそうに水瓶に向かって話をしていたと」
父 「海ではなく、水瓶に」
女二 「曾祖父は謎を解いたのかも知れません、理解した者にとっては、海であろうと、一個の水瓶であろうと、かかわりなく、言葉を伝えることができたのかも知れませんね」
父 「興味深いお話をお聞きすることができました。お時間をいただきありがとうございます」
女二 「こちらこそ、曾祖父のお話ができて嬉しくありました。次回は是非、二人のお嬢様と一緒にお越しくださいませ」
父、驚いて。
父 「どうして娘のことを、いや、二人の娘とはいったい」
女二、笑みを浮かべ。
女二 「縁とは妙なものですね。楽しみにしていますわ」
フエードアウト。
けたたましい、電話の音。
父 「どうした、大丈夫か」
女、泣きながら。
女 「あかりちゃんが、あかりちゃんが、ごめんなさいって、ごめんなさいって」
父 「深呼吸をしなさい、電話はそのまま。いま、家に帰る途中だ。すぐに着くから」

勢いよくドアを開ける音。
女、呟くように。
女 「あかりちゃんと繋がらなくなったんだ。私には父さんが居てくれるけど、あかりちゃんは、夜になる夕暮れの中、一人で泣いているのかな」
父 「そうだろうな」
女、溜息をついて。
女 「お父さんは厳しいな」
父、女に近づく。
父 「もっと早くに言っておけばよかったな」
女 「ううん、気づかなかったなんて。私は馬鹿だ。私だって、陸の見えない海にほうり出されたら、一日も生きていられるはずがない。あかりちゃんはとっくに死んでいたんだね。どうして、気づいてあげられなかったのかなぁ」
父 「それだけ妹が出来て嬉しかったってことだろう」
女 「でも、自分が嬉しいからって、あかりちゃんを苦しめてしまったよ。救い出して上げるよ、そうしたら、一緒に暮らそう。一緒に遊ぼう、買い物もしよう、いっぱい写真も撮ろうって。あかりちゃん、辛かっただろうな。泣かせちゃった」
父 「それで、お前はこれからどうする。何もかも忘れて、元の生活に戻るか。これから、晩ご飯つくって、食べたらお風呂入って、ちょっと、テレビを見て、宿題どうしようかなって思いながら眠るか。父さんはそれでもいいと思うよ」
女 「やだ、嫌だよ。あかりちゃん、泣いているのに忘れたりなんか出来ないよ」
父 「それは、ひよっとして、自分が死ぬようなことになってもか」
女 「お父さん、何か知っているの。私は死なない、絶対死なないよ」
父、溜息をついて。
父 「死んでもいいって答えれば、叱ってやろうと思ったけれど、死なないか・・・、しっかりしたもんだ。なら、洗面台、いっぱいに水を張りなさい」
女、元気に。
女 「うん、わかった」
ドアを開け、駆け出す音。

水の流れている音、止める音。
父 「さて、洗面台の前に立ちなさい」
女 「はい」
父 「あかりちゃんは海の水面に向かって声をかけていたんだと思う。同じようにあかりちゃんを思って呼びかけてごらん。一度は繋がったんだ、存外、繋がり易いと思うよ」
女 「わかった・・・」
女、大きく深呼吸をして。そっと、囁くように。
女 「あかりちゃん、あかりちゃん。あかりちゃん」
女独 「両手の指先、そっと水に触れてみる。ひんやりとした水の感触が指先から、手のひら、ゆっくり広がって行く。あかりちゃん、もうすぐだよ」
父 「模様だ、水面にさざ波がたちだしたぞ」
父 「もっと呼びかけなさい」
女 「あかりちゃん。おねえちゃんだよ、ごめんね、あかりちゃん」
女独 「なんだか、指先が暖かい、潮の匂い、海だ、海の匂いだ」
父 「洗面台が海と繋がった。光、洗面台の水面が茜色のやわらかな光を放ちだした」
女 「お父さん。この向こうにあかりちゃん、いるのかな」
父 「これは海底から見上げた夕暮れの空だろう、さざなみを下から見上げると、まるで網の模様に見える。この光の上にあかりちゃんがいるんだろうな。しかし、空間が繋がるとは驚いた」
女 「お父さん、行ってくるよ」
父 「まさか、お前があかりちゃんのところへ行くのか」
女 「お姉ちゃんだからさ、妹を迎えに行く。行ってきます」
父 「ま、ま、待ちな・・・」
水に飛び込む音。女、洗面台に飛び込む。
女独 「苦しい、息が出来ない、体が押し潰されてしまうよ」
激しい、あぶくの音。
女独 「お腹がぎゅっと押し込まれて行く、負けるもんか、あかりちゃんは私の妹になったんだ、もう家族は減らさない、姉ちゃんが必ず迎えに行ってやる。あかりちゃん、姉ちゃんを信じて待っていてくれ」
女独 「あれは、海の中から見上げる夕空。光る網のような模様が、あれが言葉だ、あかりちゃんの言葉だ。」

勢いよく、水から飛び出す音。
女、水面に顔を出し、あえぐように息をする。
女独 「目の前に夜へと向かう夕暮れの海が広がっている。なんだか、茜色の光の中に融け込んでしまったみたいだ」
驚いて、少女が叫ぶ。
少女 「お姉ちゃん」
女独 「一瞬、あかりちゃんと目が合った。うっ、あかりちゃんの記憶が私になだれ込んでくる。自分の体が腐っていく絶望。もう元へは帰れないんだという現 実に押しつぶされたこと。波に体が削られ、魚の餌となり、自分自身であったはずのモノが自分でなくなっていくのをひたすら見つめ続けなくてはならない、怒 り、憤り、哀しみ、あきらめ。大丈夫だ、あかりちゃん、姉ちゃんがまとめて全部、受け止めてやる」
女 「あかりちゃん。なんて言えばいいのかな、えっと・・・、泣かせてごめんね」
女独 「あかりちゃんが両手で私の腕を支えてくれる、なんだか、不思議と体が安定して、とってもいい感じだ」
女独 「水面が茜色に輝いて眩しいくらいだ、あかりちゃんが金色に見える」
少女 「お姉ちゃん、ごめんなさい。騙して、生きている振りをして」
女 「騙したのでも、騙されたのでもないよ。あかりちゃんはお姉ちゃんの妹になった、私はあかりちゃんのお姉ちゃんになった。それだけのこと、ううん、というか、苦しませてしまったこと、気づいてあげられなくて、ごめんね、新米のお姉ちゃんだからさ」
少女 「あたしは船から落ちたのか、それとも津波で流されたのか、もうそれは覚えていません。いつからか、こうして一人、海の上に浮かんでいて、少しずつ体が腐っていって、魚に食べられていって、波に砕けて・・・。気づけば、ぼろぼろの半透明の白い姿になっていて」
女 「なるほど、幽霊ってやつだ。(笑って)でも、あかりちゃんは私の妹で、これから一緒に暮らします。いい」
女独 「あかりちゃん、そっと頷いてくれた。なんだか、嬉しくなって、思いっきりあかりちゃんを抱き締める」
女 「よし、帰ろう」
女、叫ぶ。
女 「お父さん、お父さん」
遠くから、微かに。
父 「引っ張るぞ」
女独 「お父さんの声が体の中から聞こえた」
父 「筋トレの成果、見せてやろう。六根清浄、でやぁ」
女独 「体が海の底に引っ張られて行く、思いっきり、あかりちゃんを強く抱き締めた」
父 「うぉおおぅ」
激しい水しぶき、倒れる音。家に戻る。

父 「無茶な娘だ。お前が急に飛び込んで、危うく足首だけ掴まえたけれど、間に合わなかったらどうする気だ」
女 「お父さん、本当にごめんなさい」
父 「寿命が十年は縮まった。洗面台に娘の足だけが突き刺さっている、そんな経験をした父親は父さんくらいだろうな。まっ、でも・・・、本当に無事に帰ってきて良かったよ」
女独 「お父さん、溜息をついて、私の腕の中を覗き込んだ」
父 「君があかりちゃんだね、初めまして」
少女 「こんばんは、初めまして」
父 「しっかりした子だ」
女独 「改めてあかりちゃんを見つめる。白い半透明の姿で、でも、体がえぐれたり、鮫かもしれない、襲われた跡がいっぱいある。長く伸び切った髪も半分以上がちぎれて、死ぬ寸前の姿をとどめているのかもしれない」
父 「こいつはおじさんの娘だから、君がこいつの妹になったのなら、おじさんは君の父さんだ。これから、よろしくな」
女 「お父さん。こいつ呼ばわりはひどいよ」
父、愉快に笑う。
女独 「あかりちゃん、ちょっと笑った。あぁ、なんだか、とっても嬉しい」
少女 「本当に嬉しい、ありがとう」
女独 「え、あかりちゃんが消えていく、腕の中で少しずつ透明になっていく」
女、叫ぶ。
女 「あかりちゃん、あかりちゃん」
父 「これは・・・」
女、泣きながら。
女 「あかりちゃんか、あかりちゃんが消えちゃったよ」
父 「お前の左手だ。手を広げてみなさい」
女独 「私、しっかりと左を手握っている。いつの間に」
女 「手が開かない」
父 「左手にあかりちゃんがいるんだろう。安心させてあげなさい」
女、囁く。
女 「大丈夫だよ、あかりちゃん」
女独 「ゆっくりと、手が開いた。白い骨、小さな骨の欠片だ。海の匂い、ひりひりする太陽の匂い、魚の匂い、孤独、比類なき無辺の孤独」
女、泣き声まじりに。
女 「あかりちゃん、頑張ったね。あかりちゃん、とっても頑張ったよ」
女、囁くように。
女 「これからは一人じゃないよ。ずっと、お姉ちゃんがいるよ」

終わり

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つむぎうた 作 物部俊之

 

つむぎうた 作 物部俊之

 

一郎 祖父

菊江 祖母

恵子

隆雄 父

壱子 母 いつこ

機屋

染め屋

 

 

菊江、静かに。

菊江 孫が二人おります。姉は高校一年生、恵みの子と書いて恵子と読みます、妹は小学三年生、幸せと書きまして幸と申します。とても可愛い孫達で、電話口では、ばっちゃん、ばっちゃんと呼んでくれています。

私は不便な山村で、なにやら限界集落とお偉い方たちはおっしゃるそうですが、十軒の農家が自給自足に近い生活をしております。そのような場所でございますから、可愛い孫達にもなかなか会うことが出来ません。それが少なからず、不満ではありますが、思えば、戦争が終わって六十年余り、戦後、戦地から戻ってきたばかりの夫のたっての希望で、この山村に越して参りまして、今更、町で暮らす自信もございません。

元々、体の弱かった夫はこちらに越してから、三年で亡くなりました。夫には申し訳ないのですが、畑仕事をし、息子をこの細腕一つで育てるのに懸命で、夫のことも、いつしか忘れてしまっておりました。ただ、孫の幸が亡くなるまでは。(一つ間をおいて)息子からの電話で孫の幸が亡くなったこと、そして幸の遺骨を姉の恵子がすべて食べてしまったのを見た妻の逸子が、恵子が鬼になったと狂ったように叫び、恵子を強く責めていると息子から聞かされたとき、冷たいばっちゃんです。嘆き悲しむよりも、どうしてだか、私は、二十歳になる前のこと、出征する未来の夫を送るその姿を思い出したのです。

出征前の菊江と一郎。

菊江、無邪気なくらいに。

菊江 この戦争も今こそ、踏ん張り時です。しっかりね、一郎様。お国のために頑張ってくださいね。この国はあなたの肩にかかっているのですよ

一郎独白 菊江さんと見合いをし、結納も済ませた後、来るべくしてきたのが、赤い色をした召集令状だった。来るのがわかっていて見合いをするという不可思議、結婚を家同士の繋がりと捉えるのなら、俺が戦死すれば、弟の妻になればよいということか、それとも、帰って来い、待つものがいるのだぞという温情か。

一郎、搾り出すように。

一郎 君はこの戦争は間違っている、全くの無為であるとは思わないか

菊江、呆れたように、元気よく

菊江 何をおっしゃいますの。この国を征服せんとする、まさしく鬼の国から、あなた様は、自らの手でこの国を守ろうというのですよ。なんという名誉なことでしょう。私が男でございましたら、喜び勇んで、戦地に赴きますわ。(銃撃の口真似)だだだだだっ、だだだだっ、我、神国の尖兵なり。鬼の国を滅ぼし、いざ行かん

一郎独白 君とはちょうど五歳違いだ。私の世代は、ぎりぎり、この戦争に疑問を抱くことができるのだよ。君、私の命はどうなんだろうね。名誉とやらと、私の命、どちらが大切なのかね。国の行く末と、私の命、君はどちらが大切だと思うのだろうね。おのが命が風前の灯火となったいま、初めて、誰の命というのではなく、すべての命が大切なのだということに気が付いたよ。今頃気づくなんて、愚かなことだね

 

父親と母親の会話、静かに。

母親、力なく、憔悴したように

母親 幸を食べてしまった恵子は、死者を食らう餓鬼、まさしく鬼です。私は怖くて、もう、一緒に暮らしていけません。きっと、私もあなたも恵子に食べられてしまいます

父親、焦って。

父親 待ってくれ。君は母親だろう、本来、母親は子供を庇うものじゃないのか

母親 あなたにはわからないのです。夕方、窓から流れ込んでくる眩しい西日の中であの子が一人で喋っているのです、楽しそうに笑っているのです。きっと、恵子の回りには見えない鬼が何匹もいるのです。そして、相談しているに違いありません、次は私を食べようか、それとも、あなたを食べようかと。もしも、あなたが夜、仕事から帰ってきて、私がいなければ、冷蔵庫を開けてください。きっと、冷蔵庫を開けたら、食い残された私の足がごろっと転がっています

父親、その場をとにかく納めようと。

父親 わかったよ、わかったから、肩の力を抜きなさい。幸い、夏休みが始まる。恵子は田舎の母さんに頼もう。山の中で、自然に囲まれた生活を送らせよう。しばらくは君も恵子と別れて暮らしなさい。さぁ、落ち着いて。そんな気を張り詰めてばかりいると、君がまいってしまうぞ。

蝉の声。菊江の畑にて。

恵子 ばっちゃん、孫をこき使い過ぎ

菊江、笑って。

菊江 畑仕事はきついからねぇ、立っているものは可愛い孫でも使え。助かっているよ

恵子 ばっちゃんは調子がいいんだから。ん、ここの畝の草は抜かないの

菊江 そこに鋏があるだろう。五センチくらいの高さに切りそろえておくれ

恵子 草を抜かないの

菊江 あぁ、爺さんのいいつけなんだよ

菊江、少し笑う。

 

菊江と一郎、畑にて。

菊江 笑われていますよ、お父さん

一郎 笑われて・・・。何か面白いことでもしたかな

菊江 どちらかというと、嘲るという意味の笑われているです

一郎、少し笑って。

一郎 君は言葉がきついなぁ。まっ、いいじゃないか、それより、菊江さん、この支柱を畝の両端に打とう、えんどう豆を植えるからさ。柱を支えてくれないかい、私が畝に打ち込むよ

杭を打つ音、二回・

一郎 もう一つ、よいしょっと

杭を打つ音

一郎 うん、しっかりした。後は縄を張ってね、春には筍とえんどうの炊いたのを食べたいな

菊江、大袈裟に溜息をついて。

菊江 今度は失敗せずに美味しいのを作ってあげます

菊江独白 この人は雑草を抜かない、命を奪うのは辛いという。だから、鋏を持ってきて、散髪屋のように雑草を短く刈るのだ。村の人は変わり者だ、怠け者だと嘲笑う。田舎で、他人と違うことをするのは難しい。でも、この人のやわらかい笑顔をみると、まっ、しょうがないと思えるのだ。この人は戦地でどんな経験をしたのだろう、この人は決して戦争の話をしない、尋ねてものらりくらりとかわすのだ。

 

菊江と恵子

恵子 ばっちゃん、泣いているの

菊江 ん、こんな孫でも手伝ってくれると思うと嬉しくてねぇ

恵子 父さん、言ってた。ばっちゃんはとっても恥ずかしがり屋だから、なかなか、本当のことを言わないって

菊江 あんな可愛いかった息子もそんな生意気な口をきくおっさんになってしまったんだね。はぁ、鶴亀鶴亀

恵子、楽しそうに笑う。

恵子、戸惑うように、でも、思い切って、

恵子 あのね、ばっちゃん

菊江 なんだ、改まって

恵子 あの、夏休み終わってからも、ばっちゃんちに住むの、どうかな

菊江 ばっちゃんは楽しいけれど、高校、どうするんだ、とても通うことなんかできないよ

恵子 高校は義務教育じゃないからいいんだ。ね、私、とってもばっちゃん孝行するよ。水汲みも畑仕事も頑張るよ、だから、だから・・・

菊江、溜息をついて、

菊江 困った孫だねぇ。まぁ、でも、この畑はじいさんとの宝物だし、山に帰してしまうのは寂しい、動けなくなったときの介護のこともあるからねぇ。孫をこき使うかねぇ

恵子、畳み込むように

恵子 ばっちゃん、動けなくなったら、私がお風呂入れてあげるよ、お手洗いにだって、一緒に行くよ

菊江、笑って、

菊江 恵子の父さんから、話は全部聞いているよ、話さなくてもいいことまでさ。あいつはいつまで経っても生真面目で不器用だ、じいさん似だねぇ。恵子、ここで暮らしな。ばっちゃんも楽しい

恵子、元気に。

恵子 頑張ります

離れたところから。

機屋 おおい、ばあちゃん

菊江 なんだ、機屋かい。孫からばっちゃんって呼ばれるのは嬉しいけれど、お前さんは、名前を呼んどくれ

機屋 年寄りの頑固なのは嫌われるよ、菊江さん。その子が孫の・・・

恵子 はじめまして、恵子といいます

機屋、楽しそうに。

機屋 可愛い子だ、菊江さんも可愛い女の子だったんだろうね、面影ないけど

菊江 お前さんが染め屋ちゃんと双子だとは信じられないよ

機屋 そうだね、姿一緒の一卵性双生児なのにさ

機屋、改まって、恵子に。

機屋 私は静香。でも、機織りをやっているから機屋って呼ばれている。妹は山の中、何処かにいるだろうけれど、染色をやっていて染め屋って呼ばれているんだ

恵子 機屋さんと染め屋さん

菊江 こいつらは市の斡旋で、なんとか事業の一環でやってきた若造だよ

機屋 地域振興事業だよ。ここも、昔は葉タバコの生産で人も多かったけど、今は十軒、十五人の小さな集落だ。市の予算が降りたからさ、私と妹が空き家を借りて、ここで機織りと草木染をしている。ここは何もないところだけれど、時間と自然だけはふんだんにある。妹の草木染の色は自然からいただくからさ、こういうところで暮らすのが都合良くてね

菊江 姉は口も態度も悪いけど、妹は静かでいい子だよ。恵子も見習うなら、染め屋ちゃんを見習いな。双子で顔は同じなのに、頭の中はえらい違いだ。

機屋、楽しそうに。

機屋 妹を褒めてくれるのは嬉しいけど、引き合いに出されるのはつらいなぁ。そうだ、後でさ、恵子ちゃん、うちにおいで。年寄りとばっか、喋っていると、頭の中がよれよれの婆さんになってしまうぞ

菊江 本当にお前は口が悪い、人間はまっとうなんだけどねぇ。それで、作品とやらは出来たのかい

機屋 妹が紅い色を探してくれている

恵子 色を探す

機屋 そう。草木染はどんな植物がどんな色を持っているのか、探してまわるんだ

恵子 とても、嬉しそうな笑顔ですね

機屋 私が。なんか、照れるなぁ、集落東端、からころって機の音が聞こえたら、それが私たちの家だ。遊びにおいで

恵子 ありがとうございます

機屋 楽しみにしてるよ。そうだ、昨日、ばあちゃんに貰った菜っ葉の炊いたん、美味しかった、ありがとう。お皿、勝手知ったる他人の台所、返しておくよ、じゃぁね

菊江 鉄鍋に、きゅうり、ごま油で炒めたのがあるから、半分、持って帰りな

機屋 ありがと、ごっあんです

機屋、退場。

恵子 元気な人だね。人生が楽しくて仕方がないって顔をしている。

菊江 あいつらのおかげで随分、賑やかになった。ばっちゃんもね、料理を作るのが楽しいんだよ

恵子 機屋さんって、なんか、いい人だね。機織と草木染か。やってみたいな

菊江 遊びにいっといで。機織のいろんな道具があったよ

恵子、おどけたように。

恵子 草刈りと水遣りが済んだら行きます、日射病でばあちゃん倒れたら大変だ

 

菊江独白 恵子の様子は変わらない、今までどおりだ。どうして、恵子は幸の骨を食べたのだろう。あんなに仲の良かった姉妹。それに幸が亡くなって間がないというに、変わらずに恵子は笑顔でいる。幸のことを忘れたようにいる。そういえば、電話で、恵子の独り言が多い、まるで誰かいるように楽しく喋っていると言っていた。本当に恵子は誰かと喋っているのか。そういえば、じいさん、化石の話をよくしていた。この山も大昔は海の底で、海の化石がたくさん出てくるんだとか。親は子供へと、命を繋いでいく。化石はそれが出来ないから、骨になって、何万年も土の中で命を繋いでいくだよと。あぁ、それなら、恵子は幸の命を継ぐために、化石になった幸の骨を食べたのかもしれない

 

菊江と染め屋

染め屋 どうなさいました。泣いていらっしゃるの

菊江 あ、いやいや、なんでもない。ん、染め屋ちゃんか、どうしたんだい

染め屋 姉を探しているのですが

菊江 機屋なら、皿を返しにうちの台所へ行ったよ

染め屋、笑みを浮かべ。

染め屋 菜っ葉のたいたん、美味しくいただきました。おばあさまには、お料理を教えていただかなくちゃ。とっても美味しいのですもの

菊江 ただの田舎煮だよ。あんたらがやって来てくれて、楽しんでいるよ。そうだ、聞かせて欲しいんだ、姉妹ってお互いをどう思っているんだろうね。機屋と染め屋ちゃんは随分違うわね

染め屋、笑うように。

染め屋 違いますか。どうしてでしょう。体つきも顔もそっくりですよ。鏡が要らないくらいです。こんなに似ているのなら、一人いらないんじゃないかってくらいですわ

菊江 でも、どうしてさ、そんなに喋り方や雰囲気が違うんだい

染め屋 姉は責任感が強いのですよ、私を守らなきゃって思ってくださるから、つい、言葉が荒くなってしまいます

染め屋、照れたように笑う。

染め屋 私はそんな姉に甘えてばかりですから。そうだ、背中の籠に、よいしょっと

菊江 オトギリソウだね、随分、見つけたね

染め屋 お山から、一抱えも頂いてしまいました。成長が良いですね、普通でしたら五十センチくらいですのに、1メートルはありますわ

菊江 それをどうするかね

染め屋 姉が喜びます、昔の人はオトギリソウの繊維で布を編んだとか、常々、姉も機会があれば編んで見たいと申しておりました。あとは、私も残ったのをいただいて、煮出してみようかと。オトギリソウから良い色をいただけるかもしれませんわ。大切な命をいただくのですから、無駄にだけはしたくないのです

菊江 命か。確かにそうだね、本当にそうだ

染め屋 どうなされました、お寂しそう

菊江 孫のことを考えたらさ。なんでなんだろうね

染め屋、一つ、溜息をついて。

染め屋 姉でしたら、しっかりしろ、ばぁちゃんって怒鳴ってますわよ

菊江、笑って、元気に。

菊江 確かにそうだ、あいつなら言いかねないね

染め屋 おばぁさま

菊江 ん

染め屋、声を静めて。

染め屋 オトギリソウは、血止めの薬草でもありますのに、弟を切ると書くのですよ。なんて、物騒なこと。切ってはなりませんわね、弟も妹も

 

逸子(恵子の母親)独白

逸子、低く思いつめたように。少しずつ、早口になっていく。

逸子 あなたは会社勤めで家にいらっしゃらないからわからないのです。あれは鬼です。きっと、私たちの目の届かないところで恵子はあの鬼に食われ、鬼が恵子に化けているのです、そして、幸を食べ、味を占めたあの鬼は、あなたも私も食べてしまおうとしているに違いないのです

逸子 妹を食べるなんて、あれは恵子ではありません。あなたにはわからないのですか。あれは鬼です、大切な恵子に化けた鬼なのです。私は恵子と幸の母として、あの鬼を退治せねばならないのです

 

恵子と機屋と染め屋

染め屋 あなたが恵子ちゃんね。どうぞ、お入りなさいな

恵子 えっと・・・、染め屋さん。

染め屋 正解。姉ももうすぐ帰ってきます。さぁ、どうぞ、お入りなさい

恵子 おじゃまします

恵子、部屋に入る。

染め屋 おざぶ、使ってくださいな

恵子 あ、ありがとうございます

染め屋、にこやかに、軽く問うように

染め屋 恵子さん、緊張している

恵子 あはは、さっき、機屋さんに会いましたから、ちょっと

染め屋 なるほど、戸惑っているんだ。同じ姿だものね。さ、お茶をどうぞ

恵子 ありがとうございます。あ、ハーブティーですね

染め屋 その仲間かな。その籠に一抱えも草があるでしょう、それがオトギリソウ、少しいただいて、暑く熱した鉄鍋で炒って、お茶にしたの。

恵子 見たことがない草です、まっすくで、綺麗な

染め屋 町にはないからね。オトギリソウはお腹の薬にもなるし、ヨモギと同じ、怪我をしたときの血止めにもなるのよ

恵子 オトギリ、オトギリソウ

染め屋 弟を切ると書いてオトギリソウ、血止めの薬にもなるのにね。秋には、この緑の葉が血飛沫を受けたように赤くなるの。多分、そんなところから、こんな名前が付けられてしまったのかもしれないね

恵子 染め屋さんって、機屋さんと、喋り方がなんだか違う

染め屋 姉さんはしっかりしているし、私は姉さんの引っ付き虫だから

染め屋 姉さんと一緒にいたくて、一緒に出来る仕事をって草木染を始めたくらいなのよ

恵子 なんたが、いいですね

染め屋、そっと笑って

染め屋 いつまでも、姉さんに依存していてはいけないって、わかっているつもりなんだけどな。恵子さんもお姉さんなの

恵子 え

染め屋 ううん、恵子さんって、ちょっとお姉さんっぽいなって思ったから

恵子、思い切るように。

恵子 幸、妹の名前です。妹は私のお腹の中にいます

染め屋、不思議そうに。

染め屋 どういうこと

恵子 春、病院で幸は亡くなりました。いつも、姉ちゃん、姉ちゃんって、笑いながら抱きついてきてくれたんです。とっても幸せそうな笑顔で姉ちゃん、大好きって言ってくれるんです、姉ちゃんも幸が大好きだよって、私も笑っていたんです。それが、急に・・・。

私、病室で幸を抱きしめて泣いたとき、ふっと、幸の中から、私のお腹に暖かいものが入った気がしたんです。きっと、これは、幸が、天国に行くのもやめて、風になるのもやめて、私と一緒になってくれたんだ、そう思ったんです。なんだか、初対面の人に変な話をしてしまって、ごめんなさい

染め屋 難しいことはわからないけれど、幸ちゃんの命が、恵子さんの中で続いているのかもれしないね。そんなお姉さん、羨ましいな

恵子 機屋さん、とっても、染め屋さんのこと、大事に思っていますよ

染め屋、うふふと小さく笑う、含みを持たせた感じ。

機屋、帰ってくる。

機屋 ただいま。おや、恵子ちゃん、来たね。、折角だし、晩御飯もうちで食べよう

恵子 嬉しいけど、ばっちゃん、寂しがるかもしれない

機屋 それもそうか。ばぁちゃんの孫、とったら可哀想だね

染め屋 なら、私たちがおばぁさまのところへ、晩御飯の用意をして参りましょう。四人で晩御飯をいただけば、きっと、楽しいし、それに、おばぁさまのところには囲炉裏があるでしょう。私、囲炉裏を囲んで晩御飯って憧れますわ

機屋 遠火で干物の魚を焼いて、自在鉤には具沢山の味噌汁、灰に熱燗、じんわりといいなぁ

染め屋 もう、お姉さまったら。私と同じ顔で、おっさんっぽいこと、言わないでください

機屋 (笑って)、ごめん、ごめん

染め屋、笑って。

染め屋 今日のの晩御飯担当は私ですから、これから、台所で準備してきますわ。そうだ、オトギリソウもいくらか持っていって、煎じてお茶にしましょう

機屋、小さく吐息を漏らして。呟くように。

機屋 元気だなぁ

恵子 染め屋さんのことですか

機屋 まぁね

恵子 機屋さんって、なんだか、染め屋さんが苦手みたい。あ、ごめんなさい

機屋、困ったように。

機屋 そういうことはね、思っても言っちゃだめ

機屋、くすぐったそうに笑う。

機屋 ほんと、まいったなぁ・・・。(掛け声)、よいしょっと。さて、恵子ちゃん、機織、ちょっと実演してあげようか

恵子 お願いします。楽しみ

 

菊江独白 電話を切る。壱子さんがすっかり気鬱でふさぎこんでいるらしい。急に子供をなくしたのだ、それもそうだろうと思う。ただ、気になること、壱子さんは、幸の骨を食べてしまった恵子を鬼だと思い込んでいるらしい。なんだろう、鬼という言葉にあまり思い出したくなかったこと、正面から考えたくなかったことがどうしようもなく浮かび上がってくる。

 

菊江 (勢い良く、溌剌と)なにをひ弱なことをおっしゃるのでしょう、一郎様は。だだだだっ、この国を護るため、鬼など、蹴散らしてやればよろしいのです。一郎様が祖国の英霊となり、私の元にお戻りいただけなくとも、私は一郎様の妻として、恥ずかしくないよう生きてまいります。(声を落として)君は勇ましいなぁと言う哀しげな笑みの意味を今にしてわかった気がします。単純すぎるほど単純なこと。例外なく、すべての命はとても大切なのだという、それだけのことが今の今までわかっていなかったのですよ。あなたが畑の雑草を抜くのが辛いと歯を食いしばるのを笑ったこともありました。どんなときでも声を荒げることはなく、君は勇ましいなぁと笑顔でいてくれたあなたの気持ちに私はもっと寄り添っていればと、今になって悔いております。

 

機屋と恵子

ひゅんひゅんと風を切る音がする。

機屋 こうやって糸車を回すんだ。そうするとね、手の中の綿が糸になって糸車に巻き付いていく。

恵子 ほどけないの、その糸は

機屋 よりがかかっているからね、簡単には綿には戻らないよ

恵子 なんだか、凄いなぁ、指先から糸が飛び出してくるみたいだ

機屋 指先の力加減や指の向き、これを手の内と言ってね、手の内で調整する。うっかりすると糸が太くなったり、細くなったり、切れてしまうこともある。指先のすり抜けていく感じでね、同じ太さの糸を巻いていくんだ。

恵子 この糸が白色じゃなくて、赤色なら運命の赤い糸だね

機屋 それは困った。上手くなればなるほど、糸が長くなってしまう

恵子、笑って。

恵子 それは、大変だ

機屋 ああ、とっても大変だ

糸車の廻るひゅんひゅんという音。

機屋 恵子ちゃん

恵子 はい

機屋 こうやって、糸を指先から繰り出しているとね、うっかり糸を切ってしまったとき、あ、ごめんなさいって思ってしまうんだ

恵子、不思議そうに。

恵子 ごめんなさい

機屋 うん。この白い糸が命のつながりを示していてね、うっかり命を切ってしまった、そんな気になってしまうんだよ

恵子 命を切ってしまう

機屋 昔、学生の頃さ、付き合っていた男がいて、そいつを妹に取られてね。なんであんなにまでしたんだろう、包丁で妹を刺してしまった、妹の糸を切ってしまうところだった。あぁ、どうしたんだろう。こんなこと、恵子ちゃんに話すなんて。かっこわるいなぁ

恵子、落ち着いて。

恵子 よく告白しました。機屋さんの頭を優しくなでてあげましょう

少し哀しげに笑って。

機屋 まさか、この歳になって、頭をなでられるとは思わなかった

恵子 私は頭をなでられるのが大好き、気持ちがやわらかくなるから

機屋、吐息を漏らして。

機屋 なんで、こんな話をしたんだろうな。誰にも言ってなかったのに

恵子 多分、それは私が、一人の人格者として聞き上手ということなのかもしれませんな

機屋 それは、まいった

機屋と恵子、笑う。

恵子 ばぁちゃんちに来てから、晩御飯の後、おじいさんの話をいつもしてくれる。それを聴くとばぁちゃん、今もおじいさんのことが好きなんだなぁって思うんだ

機屋 少し聴いたことがあるよ。一郎さんだったかな。戦争から帰ってくるのが絶望的だと言われていたのが、戦争が終わって1年、ふいっと帰ってきた。結婚せずに待っていて良かった、ほっとしたよって笑いながら言っていた

恵子 引く手あまたで、見合いの話が山盛り、もうちょっと待ってみよう、もうちょっと待ってみようって、本当に待っていて良かった。でないと、恵子はこの世におらなんだかもしれないんだからなって、昨日の晩も言われた

機屋 ばぁちゃん、様様だね

恵子 朝から、水汲みや畑仕事、ずいぶん、ばぁちゃん孝行させていただきました、少しは恩を返したつもり

機屋 戦争から帰ってこれなかった人たちも沢山いるし、遺骨になって帰ってきた人もいるとか。生きて帰れただけでみっけものさ

 

一郎、戦地にて。

一郎独白 俺は人を殺した、殺したのだ。銃撃の中で、俺はたまたま、生き残ってここにいる。沢山の同胞が死んでいった、その同胞達は奴らの銃弾で殺されたのだ。そして何よりも、俺の撃った、その銃弾も奴らを殺したのだ。こんなことはありなのか。許されざるものではないか。命を奪い合う、俺の命を奪われぬため、奴らの命を奪うのだ。俺には祖国で待つ人がいるのだ、しかし・・・。

それは、奴ら、いや、彼らも同じではないか。俺と同じように祖国に待つ人がいてくれるのではないか。そんなことに考えをめぐらせるような奴は生きてはいられないかもしれない。でも、考えないではいられない。

俺の父親が、母親が銃弾に貫かれて殺される、それを俺は国のためと受け入れることが出来るか、もしも、俺に子どもが居り、その子どもが銃弾に貫かれ死ぬことを俺は戦争なのだからと受け入れることができるのか、死んでこいと言えるのか、命とはそれほどのものなのか。俺の同胞を殺した彼らにも、子どもが居り、親もいるかもしれない。彼らか思う命の大切さと、俺が思う命の大切さとにどれほどの違いがあろうか。国のため、非国民と排除されぬため、殺しあうのは正しいことなのか。

 

すずめのさえずる声。

 

菊江独白 あれから六十年以上の年月が流れました。私はこんなおばあさんになったというのに、貴方は若いままです、不公平ですよ。折に触れ、貴方が私におっしゃったこと、僕は弱虫で意気地なしかもしれないけれど、少しは、なんていうのかな、命の大切さを知った気がする、どうして、誰も命の大切さを知ろうとしないのだろうね。命が大切なくらい、誰でも知っておりますよ、だって、私、死にたくありませんし、貴方もこの子も死んで欲しくありませんもの。貴方は困った顔をして、それでも、ん、そうだねと笑みを浮かべてくださいました。ほら、貴方。私の手の届くところにすずめが居ります、くちばし一杯に、いくつもの枯れ枝をくわえていますよ。人に近づかないすずめが手を伸ばせはすいっと掴むことのできる場所におります。巣を作るための小枝集めに必死なのでしょう、私の姿が目に入らないくらいなのですから。(間)こんな小さな鳥でさえ、必死になってひなを育てようとしているのです、命を繋ごうとしているのです、きっと、貴方は今の私と同じように、すずめに気づかぬ振りをすることでしょうね。

貴方は本当に口下手なのです、だから、私は貴方という人を知るのに、時間がかかってしまい、すっかり、こんなおばあさんになってしまったではありませんか。

 

三人の会話、

染め屋 そう、お姉さま、お話になったのですか。

染め屋、少し、笑って。

染め屋 ちょっと、上着をたくし上げますとね、刃渡り五センチの包丁の刺し傷ですわ。脇腹の、ほら、端ですから、血は溢れましたけど、こうやって、命取りとめて生きております。なんだか、こうやって傷を見ておりますと、うずうずして、お姉さま、また、私を傷つけてくださいませ、だって、とっても気持ちが良いのですもの。いつも、そう、お願い申しておりますのに、お姉さまったら、無口になって俯いてしまわれるのですよ。へんなお姉さま。ほら、またですわ

機屋 それ以上は、もう

染め屋 私と同じ顔が敵意を剥き出して襲ってくる、これは他殺になるのだろうか、でも、私的には自殺のようにも思える。これはなんと特別な瞬間なのだろう。私達双子にのみ許された瞬間なのです。

本当、お姉様ったらひどいのですわ。だって、幾度、私を刺してくださいませと包丁をさしだしお願いしても、お断りになるのですもの

恵子、強く。

恵子 だめだ、染め屋さん

染め屋 あら、どういうこと

恵子 命をおもちゃにしてはだめ

染め屋、押し殺した声で。

染め屋 私の命、奪おうとしたのはお姉さまですわ

恵子、しっかりと。

恵子 それでも。だめなものはだめ。とにかく、だめなものはだめ

染め屋 どうして、だめなわけ。理由を言いなさい

恵子 理由はいえない

染め屋 どうして

恵子 理由を言えば、染め屋さんはその理由の抜け道を探そうとする。理由を否定しようとする。でも、命の大切さはどんな理由があったってかわらない、だから、だめなものはだめなんだ

染め屋、大げさに溜息をついて。

染め屋 高校生の女の子なんかに、まっすぐ意見されてしまいましたわ。お姉さま、たまには恵子ちゃんのようにしっかりした子もいるのですね

染め屋、くすぐったそうに笑う。

染め屋 正面から、まっすぐ言われては仕方がありませんわね。こんな、面白い子、夏休みが終わったら帰ってしまうのかしら、さびしいわ

恵子 ううん、夏休みが終わっても、ばっちゃんちに居る、ここで暮らすから

染め屋 あら、それは楽しそう

機屋 学校はどうするんだ

恵子、戸惑うように、でも決心して。

恵子 高校は義務教育じゃないから、大丈夫です

機屋、探るように

機屋 高校中退ってこと

恵子 そうです

機屋 うーん。ばぁちゃんに少し聞いている。妹が亡くなってから、お母さんと関係が難しくなってしまったとか

恵子 いまは離れて暮らす方が、母さんのためでもあるし、私のためでもあります

染め屋 お姉さま

機屋 え

染め屋 お姉さま。私も、私が先に死んだら、同じことをしていただいて結構ですわ

機屋、当惑して

機屋 同じことって

染め屋、少し笑って

染め屋 なるほど、そこまでは、おばあさまからお聞きになっていない様子。なら、言わないでおきます

恵子 染め屋さんと私の秘密です。

染め屋、うふふと笑う。

恵子、うふふと笑う。

機屋 あぁ、面倒な妹が二人になったみたいだ

恵子 やりすぎると機屋さんにしかられますね。あ、この書類、「作業着作成、農業文化再興を鑑み」って、ばっちゃんの言っていた地域振興のってやつ

機屋 ああ、それ。あたしらがここに来た理由の一つだよ。昔は農作業するときは、紺染めのモンペとかはいていたわけだけど、今はたいてい、何処でも売っているような工場の作業着だ。これをね、伝統的な絣の技法で新しい作業着っていうかな、野良着を作り出そうってのが、格安でこの家を借りている私らのお役目

染め屋 これって、採算、合うのかってものですけれどね

機屋 私が織る絣ってのはね、昔の普段着用の着物なんだ、大島紬とか、何百万もする紬の着物とは違って、普段着や仕事着に使われていたものでね、破れれば接ぎなおし、繰り返し修繕して、最後は雑巾、いや、ほつれた糸を灯明の芯にまでしたのが絣という着物なんだ

恵子 機屋さん、とっても嬉しそう

機屋 そうかなぁ、好きだからね。使い捨てって嫌いで、最後の最後まで大事に使わせていただくってのが好きなんだ

染め屋 多分、上から羽織るはっぴみたいなものか、エプロンや割烹着みたいな形になります、それを染めるのが私のお仕事です

恵子 ばっちやん、喜びそうだ。ばっちゃんって本当はおしゃれだもの

染め屋 喜んでくだされば嬉しいですわね。藍染の紺を基本に、オトギリソウの赤を、少し入れてみようと思っています

恵子 このオトギリソウって緑色をしているよ

染め屋 血のような赤色と申しますと、また、お姉さまをいじめてしまいますわね。オトギリソウは季節によって、鉄の赤く錆びた色になるのですよ、そのときの色をいただくつもりです

恵子 私もそういうのやってみたいなぁ

染め屋 なら、私たちの弟子になりなさい。まずは洗濯、ご飯の用意、家の掃除からと、こき使ってあげますわ

恵子 ええっと、じっくり考えさせていただきます

染め屋、笑って。

染め屋 面白い子

 

ぐつぐつと煮炊きの音。菊江独白。

菊江 多分、機屋も染め屋ちゃんも恵子を送りがてら、やって来るだろう。多めにご飯を炊いておくか、余ればおむすびにして持ち帰らせればいい。二人は飲むんだったけ、なら、燗もしておくかね。

面白いものだなと思う。少しわくわくした気分でいる。長く一人でご飯を食べるのが当たり前になって、恵子が来た。今晩は四人で晩御飯を食べることになるだろう。おくどさんの火を見ながら、ああ、そうだ、あの頃もそうだった。

ご飯を炊こうとおくどさんの加減を見ていると、あの人は、どんなものだろう、私も何かしようかと毎度のように覗きに来る。それなら、お味噌汁の具にしますから、たまねぎを切ってください、そういうと、嬉しそうに笑みを浮かべて、そうするよと答えてくれる。

君といるとね、気持ちがやわらかくなってね、どんなに昼間、大変でも、君と晩御飯を食べるって思うと頑張ることが出来るんだ、ありがとう。

多分、あの人はとことん辛いものを戦争で目の当たりにしたのだろう。今にしてそう思う。様々な疑問を背中一杯背負って、自分自身を作っていったのだろうと思う。いつだったか話してくれた。大東亜戦争、太平洋戦争と呼ぶことに決まったようだけれどね、その前の満州事変から数えて、太平洋戦争まで、十五年間日本は戦争をしていたわけだけれど、君や僕が戦時中に教育を受けた、その教育を授けてくれた先生達は、その時幾つだったろうね、彼らが学校教育を受けてたときから、鬼畜米英なんて教えていたのかなぁ。全然、そうじゃなかったんじゃないかなぁ

いま、統治者 マッカーサーに手紙を送る人が多いらしいよ。お礼の手紙をね。征服してくれてありがとう、民主主義をありがとう、戦争を終わらせてくれてありがとうってね。

当然その中には、神国日本を鬼畜米英から守れと口角泡を飛ばしていた人たちもね、いたりするんだよ。つまりは何もかもわかっていて迎合していたのだろうね。彼らには自分や身内以外の命は紙くず同然だったのかな、やるせないね。すべての命はとても大切なものだと思うんだけどね。ごめん、嫌なことを言ってしまった。恐縮したように、貴方は俯くと、少し笑みを浮かべて、たまねぎを器用に切り出した。本当に良いたまねぎは涙が出ないんだよ、先ほどまでの話など忘れてしまったように、小さく笑みを浮かべてくれていた、ごめんねって呟きながら。

多分、私はあの人が帰ってきてくれて、たとえ三年だけでも、一緒に暮らすことが出来て本当に良かったと思う。もしも、帰ってきてくれなかったら、私は悔やんだだろう、あの人を戦争へと背中を押しやった自分自身に。

自分を責めながら一人、死にたい死にたいと繰言を重ねていただろう。

 

扉を強くどんどんと叩く音。

逸子 お母さん、開けて、開けてください。

菊江独白 逸子さんの声だ。慌てて扉を開けによると、目の前に、唇をぎゅっと引き締めた逸子さんが仁王立ちで目の前にいた。

逸子 お母さん、無事で良かったです。鬼は、鬼は何処にいますか

菊江 鬼って、逸子さん、あなた。まぁ、いいから、入りなさい

菊江独白 囲炉裏を差し向かいに、逸子さんと座る、逸子さんの右手には出刃包丁が、出刃包丁って

菊江 その包丁はどうしたんだい

逸子 これですか。これは鬼を成敗するための神聖な刀です。そして桃を買ってきました。桃は神聖な果物です。きっと、この桃を投げつければ、邪悪な鬼は桃の当たったところから、じわじわ腐り始めます、そして奴が弱ったところを、この刀で切り裂いてやるのです。鬼が滅びれば、幸も恵子もきっと成仏できるのです、いえ、二人が私の元に帰って来ることが出来るかもしれません、この両手に二人を抱きしめることができるのです

菊江 あのね、逸子さん。あなた、なにか言っていることがおかしいよ。

逸子 どういうことですか、お母さん。はっ、そうか、お母さんはあの鬼にだまされているのですよ。あれは、恵子ではありません、お母さんの孫ではないのですよ。あれは恵子に化けた鬼なのです。お母さん、だまされてはなりません

菊江独白 逸子さんの目が変に座りだして、顔が歪んでいく。まるで鬼のような。これはまるで、逸子さんが鬼になったようだ。どうしてだろう、変に心が落ち着いてゆく、それは多分、この顔に見覚えがあるのだ、鬼畜米兵と叫んでいた、私や多くの無邪気な大勢と同じなのだ。無邪気、邪の無い気持ち、とんでもない、それは、恐ろしい鬼の顔だ。

逸子 わかりましたよ。お前も鬼ですね。お母さんの皮を被った鬼なのですね

菊江独白 逸子さんが両手で出刃包丁を持ち直し、片膝を立てた。どうしてだ、恐ろしくはない、とても哀れで、逸子さんが哀れでしかたがない。あの人もこんな私を前にして、優しくしていてくれていたのだろうか

逸子が叫ぶ。

逸子 鬼め、成敗してやる

恵子が叫ぶ。

恵子 だめっ、お母さん

菊江 逃げな、恵子

菊江独白 逸子さんが恵子に向き直り走る、機屋、機屋が恵子の前に飛び出した、うわぁぁっ

 

 

染め屋、落ち着いて。

染め屋 ほんに馬鹿なお姉さまですわ。私との違いはお腹の傷ですのに、その傷まで同じになってしまっては、どちらがどちらかわからなくなってしまいます

機屋 ごめん

染め屋、大袈裟に溜息をついて。

染め屋 体当たりしたくせに、包丁がそれてかすり傷なんて、一生、笑ってやりますわ、お姉さまのこと

機屋 そんなに言わないでよ

染め屋 では、言いません

機屋 えっ

染め屋 嫌なら嫌と言えばいいんです、黙ってしまったら、なんだか、腹が立って、余計に言いたくなるんです

機屋 そうか、そうだよね、ほんと、そうだ

染め屋 恵子ちゃんのお父さんと警察が来て、みんな、無事で奥の部屋です。気を失っていた愚かな姉を心配して、寝顔を見ていた優しい妹がここにいます。何か言うことはありませんか

機屋、少し笑って。

機屋 ありがとう

染め屋 お姉さま、正解です。どういたしまして

二人、少し笑う。

 

終わり

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夕さん

朗読を前提とした小説です。まだ、執筆中ですが、そのうち、仕上がります。
仕上がりましたら、ご自由にお使いいただいて結構です。私への連絡も必要ありません、というか、連絡先を公開しておりませんけど。


夕子 会社からの帰り、駅の改札を出る。夕刻、久しぶりに早く帰ることができそうだ。
夕子 世の中の多くの父親は、三十前の、実家に暮らす娘にいらいらするらしい。おいおい、いい人はいないのか、と睨みつける。うーん、冷蔵庫を開けても、箪笥を開けてもいないなぁ。そんな、最初は冗談交じりの軽い応酬が、最終的には、出てけ、出て行くと大声で言い張り合い、ただ今、私は実家を出て、一人、いや、二人暮らし中だ。
夕子 別に男と暮らしているわけじゃない。夕さんと暮らしているのだ
夕子 夕さんは見た目、高校生くらいだけれど、うん、私より年上だと思う。母さんが言ってた、分娩室で私が生まれる時、夕さんも隣りで応援してくれていたんだよって。その頃から高校生くらいだったと、母と父の証言。羨ましい、齢をとらないなんて。
夕子 子供の頃、夕さんはお姉さんだった。優しくて、一緒にいると楽しい、そんなお姉さんだった。今は、なんだか、齢の離れた妹、うん、子供じゃない、齢の離れた妹だ。でも、このまま、私が齢を取って行けば、その内、夕さんは娘みたいに思われるようになって、私がおばあさんになった時は、可愛いお孫さんですねとか言われるのだろうか、あぁ、それについては考えないでおこう。 駅前の賑やかな商店街を歩く、呼び込む声が重なり合う。

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「夕さん」

夕さん 作 物部俊之

駅前で花を一輪いただいた。夕刻、茜色の空の下、空気までが赤く染まって見える景色の中で、小学生くらいだろうか、女の子がこれあげると花を一輪、私に差し出したのだった。
これでも、一人暮らし、いや二人暮らしの女であり、会社に勤めて一年、ちょっとばて気味の社会人でもある。
子供から何かいただくというのは、大人として、少しは遠慮すべきなのだけれど。
夕空に赤く染まったその女の子が、なにやら妙にいとおしく、つい、手を伸ばし、花を一輪受け取ってしまったのだ。
ありがとう、女の子はにっと笑みを浮かべると、きびすを返し、人込みへと消えて行った。
人込み、そして、私は初めて気が付いたのだ、賑やかな雑踏に辺りを見回す、店からはいらっしゃいいらっしゃいませの声、派手な浮かれた音楽、私は夕飯の買い物で賑わうたくさんの人達の中にいたのだ。

「夕子も物好きというかなぁ」
半透明の夕さんが、溜息ついて、ガラスコップに活けた一輪の花を眺めた。半透明の夕さん、十代後半くらいの綺麗な女の子である。半透明の夕さんはその名の通り、向こうが透けて見える、手を伸ばせば、手が擦り抜けてしまうのだ。幽霊とか座敷童子みたいなものかもしれないけれど、本人にはそういう自覚はないらしい。私は私だ、が、夕さんの自分自身に対するしっかりとした評価である。
うちの親が言うには、お産で私が生まれる時、母さんの横でしっかりしっかりと叫んでいたのが、うちの親達が夕さんを初めて見た時で、暢気な親だ、ガスの火を消し忘れてたときや、鍵を掛け忘れたときなんか、ちゃんと、夕さん、教えてくれるのよ、助かるわぁ、なんてほざいているのだ。
私が子供の頃は、夕さんはお姉さんで、いまは、なんだか生意気な妹で、それは夕さんがずっとかわらないのに、私が大人になっていったからだけれど、多分、夕さんの中では、まだ、私は妹で、子供なのだろう。父さんと喧嘩して家を出た時も、私について来てくれたのは、頼りない私が心配だったのだろうと思う。

「それ、なんて花だろう、百合かな」
「百合とは花の形は似ているけれど、葉の形が違う、この花、夕菅って云うんだ。夜に咲く月の色した花。朝にはしぼんでしまう」
夕さん、立ち上がって、窓から外を眺めた。
「見てごらん。上弦の月の色」
夕さんは実体がないので、体を突き出せば、上半身がカーテンも窓も擦り抜けてしまうけど、私はそうはいかない。カーテンを開け、外を眺める。
中空には檸檬の色をした、上弦の月が浮かんでいた。真っ黒な画用紙をくりぬいた月、闇の中、冴え冴えと輝いている。
「月の輝きに回りの星が隠れてしまった」
夕さんが月を睨む。
「さて、月の角っこに、綱掛けて、何か引き上げようようというなら、これも縁というもの、少しばかり手伝ってやってもいいさ」
夕さんがにっと笑みを浮かべた。
「どういうこと。夕さん」
「夕子。しっかり晩御飯を食え。食ったら、出掛けよう」

「足が痛いよぉ、帰りたいよぉ」
私の泣き言に、きりきり歩けと夕さんが楽しそうに笑う。全くの闇の中、あの夕菅の花が仄かに月の色を足元に照らしていた。肌の感覚が微かに湿気を感じている、雨上がりなのだろうか。見上げて見ても、真っ黒な闇。
「夕さん、一緒に居てよ、何処にも行っちゃやだよ」
「大丈夫。隣りずっと歩いてやるよ」
「ありがとう、夕さん」
「どういたしまして」
にかっと、夕さん、自信に満ちた笑顔で笑った。
私達は夕菅に導かれるまま歩いているのだ。夕菅を持つ私の右手が磁石に吸い寄せられるみたいに、歩く方角を決めて行く、私と夕さんはその後を付いて歩く。もう何時間も歩いているようにも思えるし、十分か十五分くらいにも思えるし、でもそうだ、足のだるさを思えば随分と歩いているに違いないと思う。
「ねえ、夕さん。いつか聞こうと思っていたこと、いま聞いて良いかな、多分、今じゃないと聞けないと思う」
「いいよ。歩いているだけじゃ退屈だ」
「あのね。夕さんは齢もとらないし、透けているし、手を伸ばせば擦り抜けてしまうし、私の幻覚、幻なのかなって思うこともある、でも、夕さんはお隣りさんとも仲がいいし、商店街のおばちゃん達とカラオケで歌っていたりする、近くの高校生に告白されて、ガキに興味はねぇって断ったりもしていた。夕さんは何なの」
「確かにそれはご飯食いながら尋ねることのできる質問じゃないな」
夕さん、怒らずに真面目な顔をして答えてくれた。
「私は気づいた時、難産で苦しんでいる女性の隣りにいた、うんうん唸っていた。夕子を産もうとしている母さんの隣りだった。実は私にはそれ以前の記憶がない、まったくないんだ。だから、夕子の問いに答えることは難しい。ただね」
夕さんが私に向かって笑みを浮かべた。
「私は自分自身が何者かはわからないけど、これから、こうなりたいと思ったし、こうなろうとした。夕子のお姉さんにさ」
「私のお姉さん」
夕さんが照れたように笑って頷いた。
「だから、夕子は大人になってしまったけど、私にとっては今も妹だ。夕子がおばあちゃんになっても、この夕さんの妹だ」
夕さん、ふいっと笑顔を消して、視線を前に向けた。長い付き合いだ、わかっている、夕さんは案外、照れ屋なのだ。
「お姉ちゃん、ありがとう」
思い切って言ってみた。夕さん、聞こえない振りをしているけれど、ほんの少し笑った。
そうだ、小さい頃はお姉ちゃんと呼んでいたんだ、いつからだったろう、父さんや母さんと同じように夕さんって呼び始めたのは。
夕さんの少し寂しそうな笑顔を思い出す。

「夕子。見えるか」
夕さんが囁いた。
月だ、空の高みに、夕菅と同じ色の上弦の月が浮かんでいた。微かな月明かりに辺りを見渡してみる。
月のかけら、月が欠けて落ちたように、夕菅の指し示す方向に光が灯る。

「あれは夕菅の花だ」
あの女の子が夕菅の花を片手に俯いていた。慌てて駆け寄る、女の子は信じられないようにぼぉっと私の顔を見つめた。
「来たよ。さっきは花をありがとう」
急に女の子がごめんなさいと呟いた。
「え、どうして」
私の声に夕さんが呆れたように言う。
「ま、そうとしか言いようがないもんな」
夕さんが女の子の横にしゃがんで、地面を睨んでいた。
「随分、深いし、冷たそうだ。夕子、来てみろ」
夕さんの隣り、しゃがんでみる。直径一メートルくらいの穴だ、まっくろで月の光も届かない。井戸のような、深い穴が地面に穿たれていた。
何か動いているような気がする。
「目を凝らしてじっと見てみろ」
夕さんが穴の真ん中を睨みつけたまま、呟いた。
腕だ、一本の子供の細い腕が円の中程、手を伸ばせば届くところに、下から生えていた。
手が花の花弁のようにだらりと力無く、まるで風があるかのようにゆらゆら揺れている。
夕さん、ぎろっと女の子を睨みつけた、女の子が夕さんの視線を恐れるように俯く。
私、ゆらゆら揺れるその手を両手でしっかりと握った。なんて冷たいんだ、氷、いや、そうじゃない、もっと深い、心に滲み込んでくる冷たさだ。
「ええっ、夕子、なんで掴むんだよ」
振り返った夕さんが驚いて声をあげた。
「え、あの。引っ張りあげたほうがいいかなぁって、えっと、うん」
「その穴に落ちてしまったら、闇の中、無限に生きていなきゃらなくなる」
「その穴に子供が落ちているのなら、引き上げなきゃ」
私、おもいっきり手に力を入れる、子供の手、引っ張りあげてやる、重い、なんて重いんだ、動かない。
夕さんが叫んだ。
「夕子、頭の中で引っ張りあげた時の子供の顔を思い浮かべろ。笑顔を思い浮かべるんだ」
夕さんの言うように、幸せそうに笑顔を浮かべる子供の顔を思い浮かべる。あぁ、これ、私だ、私が子供の頃の顔だ、夕さんと一緒に公園で遊んだときの笑顔だ。
ふっと腕が軽くなった、小学生くらいの少年の体がふわっと空中に浮かんだ。手を離すとゆっくりと月に向かって浮かび上がっていく。
「夕子、しっかり。まだ、次がいるぞ」
夕さんの声に穴を見ると、多分、あれは女の子の手だ、ゆらゆら、揺れていた。ぎゅっと握りしめる、なんて冷たい手だ。持っているだけで体の中まで冷たくなっていく。
おもいっきり、引っ張りあげた。幼稚園くらいの女の子だ。次々と、もう、わけがわからないくらい、たくさんの子供達を引っ張りあげる、女の子、男の子、多分、小学校高学年くらいから、下は、臍の緒をつけた赤ん坊まで、皆、とても冷たい手だ、どんどん、私の手も冷たくかじかんでいく、でも、この穴が闇そのもので、こうやって手を差し出すなら、なんとか、この闇から子供達を引き出してやりたい、母性だかなんだか、わからないけど、子供達が辛い思いをするのは嫌だ。
「夕子、この子が最後だ」
夕さんの声に手を見つめて、息を飲む。これは、生まれる前の子供の手だ、まだ、お母さんのお腹の中にいたはずの手だ。手を握って、もう片方の手を闇の中に差し込む。手が痛い、冷たいを遙かに越えて、手がちぎれてしまいそうだ。なんとか、両手で赤ん坊を引き上げる、手を離すと、ふわりと赤ん坊が浮かんだ。
「もう、限界だ」
背中から地面に倒れ込む。万歳の形で倒れてしまった。見上げると、いくつもの子供達が上限の月に向かって昇っていく。
「お疲れさま」
夕さんが少し笑った。
「夕さん。あの子達、どうなるんだろう」
「わからない。でも、闇の中、膝を抱えて震え続けているよりはずっとましだろう」
夕さん、ほっと息を漏らすと、私の横に座った。
「ね、あの子達っていったい何だったんだろう」
「親からの虐待で殺された子供達だ、この穴はそんな子供達を飲み込んでいたんだろう、こんな穴はいくつもあるのさ」

しばらくして、体を起こすと、さっきの穴は消えていた。女の子だ、女の子が正座して俯いている。足引きずりながら、女の子の前へ這う。
ごめんなさい、俯いたまま、女の子が呟いた。
「謝ることはないよ。お姉ちゃん、ちょっとばてただけさ」
手が、と女の子が言いよどんだ。
どうしてだろう、私、女の子の手を取って、私の頬にくっつける。
「ほら、手は冷たくなったけど、ほっぺたは暖かいぞ」
驚いたように女の子が顔を上げた、でも、泣き出しそうな笑顔を浮かべてくれた、そして、かき消すようにその姿が消える。
「え、あ、ど、何処に行ったの」
「下、見てみろ」
夕さんが指さす先、小さな女の子の人形が転がっていた。
「服装や髪型、同じだろう」
私、人形を拾い上げて、どうしてだろう、しっかりと抱きしめた。
なんでだ、泣きそうになる。
「少し明るくなってきた」
辺りが見える、夕菅の花はしぼんで、朝日が昇る前の、朝まだき、うっすらと青色に辺りが染まる時間だ。
「ここって」
「近所の河原だ。歩いて十五分ってとこだな」
「うん。見覚えある。あそこの橋、毎日、歩いているよ」
「徹夜だな」
「うん、お肌に悪いなぁ」
「ついでに言うと、夕子、今日は仕事、休みじゃない。ま、頑張ってくれ」
あぁあ、なんだか、溜息をついてしまった。
「帰って、ちょっとだけご飯を食べてから、仕事に行くよ。ね、夕さん、この子、連れて帰っていいかなぁ」
「そのままにすれば、水に流され、ゴミ扱いだ。いいんじゃないかな、連れて帰って」
夕さん、そっと笑みを浮かべた。
ゆっくりと立ち上がる、朝の空気が気持ちいい。川風が上流からゆっくりと流れてくる。
「夕子。同じようにさ、また、子供の手を引き上げなければならなくなったらどうする」
夕さんの言葉に、自分の両手を見つめた。少し、両手に暖かさが戻ってきたように思う。あの冷たさはなんだったんだろう。氷を掴むなんてものじゃない、心に直接襲ってくるような。あれは、あの子達の絶望や恨みや怒りなのか。ううん、そうじゃない。あれは、願いだ。生きていたい、笑顔を浮かべたい、そんな切な、そして単純すぎるほどの強い願いなんだと思う。
「あの子、ごめんなさい、って言っただろう」
「うん」
「今までにもたくさんの大人に救って欲しいと夕菅を渡していただろうと思う。全部、だめだったんだろう、だから、あの子は夕子が来たことに驚きと、胸が一杯になって、ごめんなさいの一言が精一杯だったんだと思うよ」
夕さんの言葉にじっと腕の中の人形を見つめた。薄汚れてしまっているけれど、とても可愛い人形だ。この子も辛い思いをしたのかな、こんな小さな人形なのに。
「泣いているのか」
「ううん、泣いていないし、泣かない」
ぎゅっと歯を食いしばった。
「こういうとき、絶対に泣いたらだめなんだと思う。涙と一緒に思いが流れて行ってしまうから」
夕さんも立ち上がると、にかっと子供のように笑った。
「夕子、しっかりしたな」
「うん」
どうしてだろう、素直に頷いた。
多分、私は、次も手を掴むだろう。逃げずに、知らぬ振りせずに、手を掴んで、引き上げる。
ふと、気がついた。夕さんは私を引き上げてくれたのかもしれない。
なんだか、不思議にそう思えて仕方がない。
「お姉ちゃん」
「いいよ、夕さんで。なんか照れる」
「ううん、いまはお姉ちゃんって呼ぶ。ありがとう、お姉ちゃん」
夕さん、照れ笑いを浮かべて、顔をそむけた。
「どういたしまして」

終わり

「夕さん」の権利とか、そういうことにつきまして。
「夕さん」の権利者と致しまして、ご自由にお読みいただいて結構です、
この「ご自由」を展開いたしますと、お一人でお読みになるのも、たくさんの人たちの前でお読みになるのも御自由です。また、あなた様とたくさんの人たちの間に金銭が関わっていようと、いまいとご自由にお読みいただけます、
録音をCDやダウンロード販売されて、利益を得られるのもご自由です。私になんらかの利益を供与する必要はございません。
また、「夕さん」を朗読なさったことを、私に連絡する必要は特にございません。
改変につきましては、この方が読みやすいや、この方が納得しやすいと思われる場合は、内容を変えていただいても結構です。ただ、そのときは、改変者に敬意を込める意味で、ちらし等を作る場合、原案者 物部俊之と表記してください。

今後、「夕さん」を少しずつ手直ししていくかもしれません、最新情報は http://monobe.info/book/index.cgi にてご案内を致します。

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googleは、あまり好きではないのですが、google翻訳を利用しています。

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目次

小説

朗読を前提とした小説です
夕さん1話
夕さん1話 2015.11.12版
夕さん2話

シナリオ

オーディオドラマのシナリオです
霞は晴れて
海の卵
かがみ
黒い傘

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