安全とは、少しばかり考えてみる

 お客様宅へ車で向かう途中。二車線の比較的広い車道、一帯は田圃と畑なので見通しもよい。ふと、気づいたのが、白い杖の人。車道の端を白い杖をつきながら歩く。年齢的には私より若いかなと思う。二メートル近い幅の歩道が隣りにあるのだ、危ないな、どうして歩道を歩かないのだろうと思う。そう、そして、どうしてかなと考える。すぐに私は通り過ぎてしまったので、その御仁とは喋っていない、ただ、彼は選択したのだとは考える。歩道を歩くか、車道の端を歩くかをだ。今のところ、視力もそれなりにはあり、日常、自分自身が失明することはあまり想定していない私である。人はそれぞれその人の立場があり、その立場から物事を見、そして考える。だから、何かを考えるには、様々な立場から考えないと考え違いしかねないのだ。目の見えない人の立場に近づいて考えてみる。何故、歩道ではなく、車道を歩くのを選択したのか。つまりは車道の方が安全なのだ、そう考えれば彼の選択は充分有りうるわけだ。歩道にはバス停の座席もある、溝蓋もなかったりもするだろう。そして、自転車。とばせば素人でも時速四十キロくらいは出せる、そして、歩道をどちらからも、つまり前からも後ろからも来る可能性がある。充分に歩道は彼にとって危険なのだ。車道の端を歩くのは、車、バイク、自転車と危険があるが、ほぼ、一方向から来る。まだ、予測不可能な事態が起こりづらいわけだ。そうなると、車道、出きるだけ端をとぼとぼ歩くのが、選びうる選択の中で、一番、ましかもしれないとなる。ただ、それは、決してよい選択ではなく、その選択しか選び得ないというのは、なんと、この社会は生きていきずらいのだろうと思う。こういう現状を産み出す一番の原因は無関心だと思う。私は人間の本質は善でも悪でもなく、ただ、怠惰であり、その怠惰を維持せしめんときのみ、能動的、活動的になるのだと考えている。人は本質のみで生きるのではなく、社会を構成し、支えあって生きているということを忘れてはならないと、改めて思う。